『今ここにある危機とぼくの好感度について』最終話

予告で流れた「好感度なんてどーーーでもいいんですよ!」という台詞とドアをバーンと開けまばゆい光を浴びる神崎のバックショットがどんな流れで訪れる瞬間なのだろうかとワクワクしてたというのに、「愛」の力で無敵テンションになってカツ丼キメる神崎で、次の瞬間「でもここまでだった」ってなことになるだなんて・・・。

「たかがイベントのために人を見殺しにするってことですよね」と言う学生に、「たかがとかじゃなくてさ、そこにはたくさんの人のお金とか未来が掛かってる」と力なく返す神崎。
「でもそのためには何人かが犠牲になってもいいってことですか?クソじゃないですか、そんな社会。そんなん超クソなんじゃないですかね!?」となおも食い下がる学生に

「だからそうだよ!クソだよ!!今気づいたの!?世の中ってのはね、そういうもんなの!負け組は負けるしかないし少数派は多数派の犠牲になるしかないんだよ。だから好感度なの!キミらバカにしてるけどさ、このクソ社会に出てみろよ。俺みたいななんの取り柄もないヤツは片っ端から忖度しまくって媚び諂いまくって好感度あげるしか生き残る方法ないんだから」

結局好感度なんだな神崎よ・・・。

となるも、
忖度などせず自由に生きる『変人』と呼ばれる二人(+学生)の協力によって神崎はエビデンスを集め、それを手にすることによって発生する責任とそれに対する覚悟について神崎に問われた三芳総長の、木嶋みのりの(こんなことしてそれでどうなるのと思うよ。だけどやらないよりマシだから。例えば病気が重くて死にかけてるんなら、まずそれを認めるしかないじゃん。どんなに嫌でも、病名を知らなきゃ治療だって始まらないじゃん)という発言を思い出しつつの

「問題には正しい名を付けねばそれを克服することができない」

というこの決意に、エビデンスが入った封筒を渡す神崎。

そして
「みなさんもうお気づきでしょう。我々は組織として腐敗しきっています。不都合な事実を隠蔽し、虚偽でその場を凌ぎ、それを黙認し合う。なにより深刻なのは、そんなことを繰り返すうちに、我々はお互いを、信じあうことも敬いあうこともできなくなってることです。お互いに信頼も敬意も枯れ果てたような組織に熾烈な競争を勝ち残っていく力などありません。
もし本当にそれを望むなら、我々は、生まれ変わるしかない。どんなに深い傷を負うとしても、誠の現実に立ち向かう力、そしてそれを乗り越える力、そういう本当の力を培っていかなければならない、たった今から!」

この大演説。
学校のみならずこの国に対して正論すぎて、あまりにも正論過ぎて我に返るというか、ちょっと醒めてしまったわたしがいたわけですが、事態の公表と説明と謝罪をし頭を下げる三芳総長の背後でガチ泣きしてる神崎がバズるというオチには笑ったわ。
あとこっそり懇親会会場に入ってきた須田理事のアベノマスクもw。

とりあえず懇親会は「中止」にすることで問題を先送りにしようとする石田課長(ここいっけいの真骨頂だったわー!)を力づくで止めたところには神崎なりの覚悟と、成長が見えた気がしたけれど、結局後ろで泣いてるだけで、それがバズるという結果となり(そして恋人から「あんなの無理」と言われてしまいw)、次世代博が開催されたことも含め問題を公表することによる騒動がひと段落し、再選が決まった三芳総長の引きとめにより須田理事が理事として残ることの意味、総長の思惑であり須田の思惑なんかには全く理解が及ばないというか察することができない神崎の「相変わらずさ」。この終わらせ方はこれはこれで好きだ。

「敵」である理事会の「ボス」扱いだった須田理事を単純な『悪者』にせず、「誰かの失敗を我々が叩けば叩くほど隠蔽は増えていく。厳しく罰しさえすれば状況が改善するわけではない。問題は、そう単純なものではないんです」とコメンテーターに言わせたことも現実を投影したドラマの落としどころとして、悪くなかったし。


作品として楽しめたことは勿論のこと、「あのときキスしておけば」との合わせ技で映画だけでなくドラマ界でもいよいよ違うステージに上がったことを証明できたのではないか、と思えることがほんとうにうれしい。これからの松坂桃李が楽しみでなりません。