わたしの「キングダム」との出会いは映画で、超邪悪な顔の本郷奏多を目当てに映画を見て(奏多くんの成蟜は実写化最高峰(のひとつ)だと思ってる)、そのあと漫画を読んでアニメを見たという経緯になります。漫画は途中(30巻あたり)で止まってる状態ですが、今回舞台化されているところは紫夏の話も含めて漫画で読んでるしアニメでも見ています。
大まかな流れは(場面の取捨選択としては)ほぼ映画と同じと言っていいかな。
東宝が制作する「漫画・アニメ」を原作とした「新作舞台」という共通点で『千と千尋の神隠し』と比較しますが、独特の箱庭世界を舞台の隅々まで隙間なく使い大がかりなセットとして造り上げた千と千尋~に対し、こちらは様々に形を変える石塀のような可動式セットを主体とし、小屋や馬車といった(千と千尋と比べると)小ぶりなセットを配置した盆やセリを多用し視点の変化や動きを作り、プロジェクションマッピングを使いつつ目まぐるしく切り替わる場面をほぼほぼ暗転なく再現してみせたという感じで、千と千尋~の映画の世界が目の前に!!と圧倒された記憶を思えばスケール感という意味でさすがに原作の壮大すぎるソレを舞台化できた、とまでは言えないものの、ともすればスカスカに見えることすらある舞台上だからこそ「人間の躍動感」が際立つまさしく『舞台化』でありました。これを生身の人間が目の前で演じることそれ自体が『キングダムを舞台化する意義』なのだと思う。
加えて漫画の時系列を変えて山の民と共に「帰るぞ、咸陽へ」と宣言するその前の晩に月を眺めながら「古傷が疼く」として政が紫夏のことを思い出す、という「舞台オリジナル」の脚色となっていて、これにより『恩恵は全て次の者へ』という理想であり思想が舞台の背骨となり、信と漂の剣術勝負をゼロに戻すのではなく回数を引き継ぎ信と政が勝負する(ところから次への一歩を踏み出す)というこの舞台のラストとともに「遺志」であり「意志」を「託し」「受け継ぐ」という『テーマ』がより明確になっている。
ざっくり言ってしまうと敵が現れる→戦う→また敵が現れる→戦う→大乱戦 という単純・単調な流れでしかないところを、2幕始めに紫夏のエピソードを入れることでメリハリを付けつつ、東宝だからこれだけ数を揃えることができるのであろうアンサンブルを含めた役者たちの肉体!肉体!肉体!!で勝負する、トータルとしてとても良くできた『舞台化』だなという印象です。
実は観る前はドロドロしたものがわたしの中にあったりしたんですよね。一言でいうと「嫉妬」なんですけど。
わたしのすきな役者さんは20代で帝国劇場に立つことを目標としていて、それは叶ったものの帝劇の「真ん中」に立つことはまでは出来てないんです。だから信と政を演じるメインの4人に対する嫉妬でグギギギ歯ぎしりしながら客席についたんですよ。始まってもしばらくは「羨ましいんだよクソクソッ」などと思ってたんですよ。
でもですね、あっという間にそんな気持ちは消えた。黒卑村への地図を託し「お前が羽ばたけば俺もそこにいる。俺を天下に連れて行ってくれ」と笑って漂が死ぬあたりでは完全に舞台に没入してた。
組み合わせとしては「三浦・小関」コンビと「高野・牧島」コンビをこの順で観たんですが、どちらもとてもよかったです。
小関くんはまあ絶対ハマるだろうと思ってて、スッと伸びた背筋が美しく理知的で芯の強い思った通りの政であり漂なんだけど、三浦くんと言えばわたし的には直近だとヘアスプレーのリンクだし千と千尋のハクだし、レミゼのマリウスだし、育ちがよくて品があるおぼっちゃん役が似合うイメージしかないから(イメージ的にはむしろ政だろうと)信!?信なの!??とキャスト発表を見たときは結構驚きましたが、粗野で荒々しい信でビックリした。
役者であるわけだから役として“そういう感じ”を演じることはできるだろうけど、こうまで自然にオラつけるんだ!?って。
これは高野・牧島コンビを観ての比較なんだけど、三浦・小関コンビは妙に生々しいんですよね、存在が。この表現が相応しいか悩むところだけど「生の信」であり「生の政」って感じがした。
対して高野・牧島コンビ、特に高野くんの信は漫画そのものという感じなんですよね。アニメに発声を寄せてる?こともあって良い意味で「2.5次元」感が強いのは断然高野・牧島コンビのほう。
誤解を招くであろう表現になりますが、三浦・小関は役を自分の中に落とし込んでいて、高野・牧島はキャラクターを被っている感じ(これはあくまでもアプローチの仕方の違いであって、良し悪しの話ではないことだけは分かって欲しい)。
で、三浦・小関と比べると高野・牧島は演技というか動きが小さい。信はトランポリンを使ってジャンプする演出があってそこが一番わかりやすいんだけど、バレエ経験という下地があるだけあって三浦くんは身体を大きく使うんだよね。その点高野くんは三浦くんと比較すると全ての動きが小さくて、でもその分スピードは高野くんに軍配が上がる。
政も小関くんの身長の高さを抜きにしても、牧島くんより小関くんのほうが明らかに「視点」が高い。
小関くんは政と漂の違いが「見た目」に出るんだよね。今そこに政として存在してたのが回想の中で漂として現れる場面とか、その演出が分からずともその瞬間「漂」であることが「判る」のよ。牧島くんは漂と政で「声」をはっきり変えてくるのでそれもまた判りはするんだけど。
それは三浦・小関は帝国劇場サイズの芝居で、高野・牧島はそこまでは到達できていない、ということなんだと思うけど、でも繰り返すけど殺陣のスピードは高野・牧島のほうが上なんで、どちらにも良さと課題があるかなーと。
この舞台は剣戟音を付けないんですよね。もしここに新感線みたいに剣戟音が入ってたらまた違う見え方になっただろうし(息遣いや剣を振る音といった「生の音」を活かすためにあえてSEを入れてないという話を目にしたけど、わたしは実際息遣いが聞こえるほどの席で観たのでその意図は理解できたけど、でもこれだけ大きな劇場では全ての席でその「音」が聞こえるわけじゃないから全部とは言わずともここぞというところには「効果音」を入れてもよかったんじゃないかなーとは思う)、これが三浦・牧島と高野・小関だったらまた違うかもしれないのでできることなら全ペア観たかったー。
そうそう殺陣で思い出したけど、小関くんでは気づかなかったから(やってたら絶対気づいたと思うんだけど)牧島くんだけがやってるんじゃないかと思うんだけど、牧島政は魏興を前にしたシーンだったかで剣に付いた血を袖で拭うんだよね。わたしはこれがたまらなく好きだ!!(突然の告白)。
有澤樟太郎くんの壁は三浦・小関コンビで観ましたが、リアル壁だった。
有澤くんを知ったのは去年のジャージーボーイズで観るのは2作目だけど断言するわ。この人めちゃめちゃイイな!。舞台の上でのバランス感覚が素晴らしい。
この壁という役は云わば中間管理職ポジションなのでそのバランス感覚がダイレクトに反映されていて、山の民に捕らえられた場面での信と貂との三馬鹿感とか、作戦会議で楊端和をチロチロ見るのとかやり過ぎない絶妙な“細かな演技”で、昌文君や大王、さらにバジオウといった他者と絡む場面がことごとくイメージ完全合致の見た目とともに壁そのもので感動した。
一方、高野・牧島コンビで観た梶裕貴さんの壁は有澤壁からユーモアを取っ払った「職務に忠実で真面目な武人(部下)」でした。
言うなれば有澤壁が「壁のあんちゃん」で梶壁は「壁のぼっちゃん」って感じ。
壁には「説明係」という大きな役割があるので、この点についてはさすがの梶くんでしたし「もっと“剣”を信じろ」はさすがの説得力でした。
副官の地位を金で買ったのか?とからかわれて反論するけど、文武ともに他より秀でていたからだけでなく部下たちに指示を伝えまとめるのが上手いんだろうなと思わせる力が梶くんの声にはあるんだよね。
殺陣はまあ・・・・・・・・・頑張ったね梶くんってことでw。魏興の兵を相手に昌文君とシンメで大立ち回りするという見せ場があるんだけど、頑張れ頑張れ!と思わず拳を握ったわw。
成蟜は最初に書いたように本郷奏多至上主義のわたしなのでどちらもムカつかせ感が足らん!!
・・・と言いたいところですが、神里優希くんはなまじ顔が綺麗なだけに傲慢さが、鈴木大河くんは世間知らずゆえの小物感がそれぞれの「成蟜らしさ」になっていて、この言ってしまえば“損な役”をしっかり演じていたなという印象です。
成蟜とともに「敵役」となる竭氏の壌晴彦さんが素敵な低音ボイスなので、見た目的に「弟感」に欠けてしまうところをその低音でもってうまく成蟜の「バカガキ感」を引き出すことができていた。
女性キャラはそれぞれ河了貂・華優希さん、楊端和・美祢るりかさん、紫夏・朴璐美さんとWのお一人でしか観られませんでしたが、舞台経験豊富なお三方なので間違いないだろうと思った通り、間違いなかったです。
宝塚の娘役だった方は声というか発声が独特で気になることも結構あるんだけど、華さんの貂はぜんぜん気にならなかったし、逆に美祢さんの楊端和は元男役だけあって掛け声がとにかくキマるキマる!「血祭りだっ!」が最高にカッコよかった!。
前述の通り『恩恵は全て次の者へ』という思想を描くこの作品の云わば『核』となる紫夏パートは子役を相手に実質一人で引っ張ることになるんだけど、朴さん紫夏はただただお見事の一言です。紫夏という人物は政にとって初恋の相手だとわたしは解釈してるんで、それで言うと朴さん紫夏は母性が強すぎるようには感じましたが、その母性がなにがなんでも「この子を守る」という紫夏の強い想いに説得力を与えていて、ゆえに台詞として言わせずとも政がなにを背負って戦いに望むのか、王座を取り戻さねばならぬのか、その「覚悟」がよくわかる。
小西遼生さんの昌文君は顔面綺麗すぎねえ?という思いは否めませんが安定安心でした。
というか、この座組だとコニタンがこのポジションになるのかーと、結構前から見てる者として謎の感慨深さがありますわ。
身に着けてる鎧がどれほどの重量なのかわかりませんが、決して軽くはないだろうに結構激しい殺陣が付いていて、これをシングルで務めるのはすごいよ。
でもこの舞台にはそれをはるかに上回る過酷な「シングルキャスト」がいまして、そうです朱凶とバジオウの2役を演じる元木聖也さんです。はいわたしのお目当てー!。
バジオウだけでも大変だろうに朱凶もやらせようって言いだしたの誰よ・・・鬼だろ・・・観客目線だと天才だけど。
バジオウだけだったらほとんど台詞がないところを朱凶も演じることで「命だけは助けて!子供が4人いるから!」の『演技』を見ることができたし、朱凶では主に信とのタイマンバトル、バジオウでは多数を相手にしての乱戦からの左慈戦にランカイ戦と、聖也さんの身体能力をこれでもかー!と堪能できて大満足です。
剣戟音を付けないことについて賛否があると思うんだけど、バジオウに限っては音がないことで「フシューッ」という呼吸音が聞こえて非常に良いです!!。
そして聖也バジオウ(と山の民を演じたアンサンブル)はカーテンコールで仮面を取るんですが、仮面取った聖也さんめったくそイケメンで死んだ。
いやだってドスッピン!!!すっぴんドエロい!!!!!。
このときの聖也さん完全に「一仕事終えた職人の顔」なんですよ。ただの「素顔」じゃなくて「職人の素顔」なの。それがエロい。エロス駄々もれ。
聖也さんが仮面取った瞬間音速で「すき!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と心の中で叫ばずにはいられなかった(おまえの「嫉妬」はどこ行ったw)。
もう一人のお目当ては早乙女友貴くんの左慈でした。
ゆっくん左慈については正直物足りなさしかない。どれだけの出番かわかってはいましたが、いざ観たらこれほどアクションだらけの作品なのに早乙女友貴にこれっぽっちの殺陣しかさせないだなんてもったいなさすぎる!と思わずにはいられなかった。
登場するや否や山の民二人を瞬殺し、信とバジオウ相手になるので仕方ないのはわかるんだけど(これ以上手数増やしたら信役者と聖也さんが死ぬ)、この3倍は手数増やしても問題ないっしょ。
でもそれまでは淡々と斬りつけてたのに蹴りをぶち込み膝をつかせた信に「誰がしゃがんでいいと言った?」と煽る時はチンピラスイッチ入るの最高。ゆっくんの左慈は漫画やアニメほどキレることはなく、どちらかと言えば映画の左慈寄りなんだけど、ちょっとテンション上がるとチンピラになっちゃう左慈のボスが神里成蟜であり鈴木成蟜だってのはわりとしっくりきますねw。
この右龍での戦いと公龍の広間での乱戦は「同時」に行われているわけで、そこはあれこれ演出することで「同時感」を出せてたんだけど、政が「耐えしのげば俺達の勝ちだ!」と激を飛ばすところは右龍の戦いにはライトを当てずに場所を切り替えるという演出だったのね。なので舞台の真ん中最上段で政が激を飛ばし左慈はその下の暗がりに立ってるという状態なんだけど、坂口拓ちゃんがよくやる剣を肩に担ぐやつ、あれをやってることがあってそれがめちゃめちゃチンピラだったし、別の回では信を見ながらゆら~ゆら~と足を動かしていて、その姿は「残忍」そのものでこれまた最高。
漫画では袈裟懸けに斬られて派手に血飛沫上げて倒れるという死にざまだったけど、登場したきと同じ格好で「死ぬ」のもゆっくん左慈にはとても似合ってた。
とまあここまで長々と各キャストの感想を書いてきましたが、最も素晴らしく、そして美味しかったのは案の定山口祐一郎様でした。
物理的のみならず存在感としてもとにかく「デカイ」わ、一声発するだけで場を支配できるわ、『舞台版王騎将軍』としてこれ以上はないと断言できる。
そして祐様の存在があるからこそ「帝国劇場」での上演が成立しているのだと、祐様が王騎将軍として文字通りこの作品を支えているから劇場と作品の釣り合いが取れているのだということを強く感じたし、改めて山口祐一郎は唯一無二であるのだなと思い知らされた次第です。
昭王とともに生きた王騎が政と信という「次の世代」に未来を見出したように、帝国劇場のど真ん中に立ち続ける山口祐一郎が「次の世代」を導いているというそんなドラマも重ねてしまうわけで、つくづく信と政を演じる4人が羨ましいんだよコンチクショーーーーーーーーーー!!(話が戻ったw)。