『NINAGAWA・マクベス』@シアターコクーン

実に17年ぶりの上演となるこの作品。もちろんわたしは初見です。

「仏壇マクベス」と呼ばれる蜷川さんの作品があるということだけは存じてましたが、実際に観たらほんとうに「仏壇マクベス」でした。劇場に足を踏み入れると舞台いっぱいに鎮座する巨大仏壇が目に入り、「おお!これが噂の仏壇マクベスかー!!」と開幕前から興奮。
そして舞台が始まるとその仏壇の中で繰り広げられるまるで絵画のような美しさに息を呑むばかり。とにかく美しい。舞台美術が美しい。衣装が美しい。照明が美しい。弦楽のためのアダージョが流れるなかで悲劇を紡ぐ役者はしなやかで気高く、そして美しい。もうなにもかもが美しすぎて、感嘆の吐息がとまらない。なるほどこれは「幻の名作」であり「伝説」と言われるわけだと、至極納得。

開幕を待ってると、いつの間にか荷物を背負う腰の曲がったお婆ちゃんが通路を舞台のほうへゆっくりゆっくり歩いてるんですよね(通路横だったんでいきなり隣に野良着のお婆ちゃんがいてわたしの座席の背もたれ握りしめてプルプルしてて超びびったわ・・・)。上下の通路を歩く同じようなお婆ちゃんはやがて舞台に上がるとゆっくりと仏壇を開く。これが幕開けになるんだけど、お婆ちゃんたちは仏壇を拝み、そのまま両袖にちょこんと座って弁当食べ始めるんですよ。仏壇の中で行われてる悲劇を眺めながらお弁当食べてお茶飲んで、挙句薬まで飲んじゃってんですよ。
だもんでもう気になって仕方がなかったんだけど(回数は多くないけど場面転換で舞台が暗くなるときにお婆ちゃんにライトがあてられたりするから)、マクベスってこういっちゃなんだけど物語の流れとしては粗いじゃないですか。
マクベスが魔女に出会っていずれ王になるって言われる→嫁に煽られて現国王を殺す→王になるも一緒に魔女に出会ったバンクォーのことが気がかりだからバンクォーも殺す→マクダフが従わないから一族郎党女子供も全て殺す→夫婦揃って悪夢に憑りつかれる→前国王の息子に殺されました
これだけだよね。マクベスという男の物語としては、野心を抱き王を殺し王座に就くも良心の呵責に苛まれ心神耗弱の末殺されるというだけの話。もちろんその場面であり局面において登場人物の心情が描かれるわけで、その描き方見せ方にこの作品が上演され続ける理由があるわけだけど、話そのものは紙芝居のようなものなのかなーと。まるで絵画のようだと感じたのはあながち間違いではないというか、そういう意図が込められていて、とすれば仏壇は紙芝居の枠で、お婆ちゃんたちはその観客なのかなーと、客席に座っている観客の「目」としてそこにいるのかなと、そんなことを考えたりしたんだけど、それはさておきこの仏壇は単なる「枠」などではなく、舞台の中で様々な用途で効果的に使われていて、さらに仏壇といえば「死」を悼むためのものであり場所であるわけで、仏壇というものを発想し、そこに(見る者にとって)幾重にも意味を持たせるこの演出を考えた蜷川さんの才気に感服しきり。

そしてバーナムの森の演出な。わたしがこれまでに何度か見たマクベスの中で最も美しく狂気に満ちた「バーナムの森が動いている!」だった。これをこういう形で見せたい思ったからこそのこの和風・・・という表現でいいのかなぁ?この設定(演出)だったのではないか?と思ってしまったほどこのシーンの視覚的インパクトは凄かった。


そんな中で演じられるマクベスは、変な表現になりますがわたしの見知ってる普通のマクベスでした。役者はみんな和装だし、舞台の両端でお婆ちゃんたちがお弁当食べてるけど、語られていることは、語っている言葉は普通のマクベス。老婆が仏壇を開くと障子があって、その障子の向こうで三人の魔女が蠢いているという幕開けなのですが、魔女たちは緋色の着物に白塗りの赤姫姿+歌舞伎調(演者は男性)で台詞を言うので、てっきり“こういうアレンジ”がなされるのかと思ったんですが、始まってみれば和装なのに「マクベス」だし「バンクォー」だし、「コーダーの領主」。マクベス夫人なんて着物姿でありながら股を大きく広げチェロを奏でる。冷静に考えたらおかしな世界観だし、間違いなく「異質」であるはずなんだけど、でも不思議とそんなに違和感はなかった。

その理由は多分、吉田鋼太郎の存在にある。鋼太郎さん演じるマクダフは主要人物の中では一番最後に登場するんだけど、マクダフが登場し第一声を発した瞬間「わたしの知ってるマクベスシェークスピア)」になった。もしかしたらそれまでなんとなく感じていたかもしれない違和感はなくなった。
やっぱり経験、なのだろう。舞台役者として日本のシェークスピア劇を引っ張ってきた吉田鋼太郎の時間が、経験が、どんな場所に立っていてもどんな衣装を纏っていても、マクダフにさせてしまうのだろう。

どこかで見た話ですが、今回の上演は「市村さんたっての希望」だそうで、それに対し蜷川さんは「一人の俳優が人生の経験を全てかけてマクベスの台詞を言いたいというのならば応えなければならない」と、そう仰っていたそうで、そういう役者たちの想い、この演出で蜷川さんの舞台に立つことへの想い、それぞれの役者人生を背負ってぶつかり合うのではなく認め合うというか、上手く言えないのだけれど技術よりも心でNINAGAWAマクベスを演じている、そんなふうに感じました。
その象徴がマクダフに討たれたあと、身体を丸めてまるで胎児のような市村マクベスなのかなーと。人生の経験全てをかけてマクベスの台詞を言い終えた、マクベスを演じ終えた男の姿がこれなのかなーと。


そんなわけで、市村さんのマクベス。正直言うと、台詞を聞き取れない場面が結構ありました(D列センターブロックでも)。相手がいて言葉を交わす場面で。でも独白になると囁きでもちゃんと聞こえる。表情とあいまって濃度が一気に上がるんですよね。

同じ劇場で上演されていたこともあってわたしの記憶の中ではまだ堤さん(長塚演出)マクベスの印象が強いのですが、堤さんのマクベスと比べると“悪人感”はさほどない。堤さんよりはるかに理知的に見えるマクベスで(つっつんマクベスが頭悪いとは言ってないです、言ってないですって!w)、だからまぁなんで魔女に予言めいたこと言われ妻に煽られたぐらいで王殺しをやっちゃうの?と、そもそもの発端から「この人なんでこんなことしてんの?」感があったりしたんだけど、王の座を得てからの狂いっぷり、そして唯一の味方である妻が自分よりも先にさっさと狂って死んでしまった嘆き、市村マクベスの魅力はここにあった。
沢山の小さな灯の中でマクベスが妻の死を知る場面は哀しいまでに美しく、妻の着物をバサっと羽織って死へ突き進む決意をしたマクベスの姿からはまさに破滅の美学を感じさせられて、ここはさすがの色気。


市村マクベスを導くマクベス夫人は田中裕子さん。いやあ・・・やっぱすごいわこの人。
マクベス夫人って猛妻(今風に言えば鬼嫁)イメージなんだけど、田中裕子さんにそういうイメージってないじゃないですか。これまでわたしが観たマクベス夫人は大抵夫のケツを蹴り上げるようなタイプだったんで、安土桃山時代という設定であることだしどんなマクベス夫人になるのかと楽しみにしていたのですが、耳からじわじわと悪意を浸透させるというか、蜘蛛の糸で逃れられなくするというか、そんな感じのマクベス夫人で、これは怖い。市村マクベスがわりと理知的だもんで、マクベスに野心を吹き込んだ魔女たちよりも、マクベスの中に生まれた野心を育てたマクベス夫人のほうがよっぽど恐ろしい。

なにが恐ろしいって、田中裕子さんのマクベス夫人は非常に上品なんですよ。所作が美しい。それだけに、柔らかな声音で柔和な表情を作りながらなんでそんなに恐ろしいこと言えちゃうの!?と。マクベスマクベス夫人によって人生を狂わされ破滅へと突き進んだという“理由”があるけれど、マクベス夫人はなにを求めて夫を焚き付けていたのか、それが全くわからない。そのわからなさが怖かった。


橋本さとしさんのバンクォーは男らしくてカッコよかった。この演出で最もビジュアル的なカッコよさが引き立ったのは間違いなくさとしバンクォーだと思うわ!!。カテコで並ばれた時にひとりだけ群を抜いてでかくてときめきまくったんだけど、その大きな身体と発せられる男らしい声でもってバンクォーの強さが感覚的に伝わってくるので、マクベスがその存在を恐れるのも納得なバンクォーだった。
でもやっぱり幽霊バンクォーは笑っちゃうんだけど(笑)。


鋼太郎さんは前述の通り、たった一声でこの異色の舞台を“シェークスピア”の世界にしてしまう圧倒的な存在感でした。これぞ鉄板。
で、マクダフの見せ場は自らの城で妻子が襲われた悲劇を知っての慟哭ですが、これはすごかった。そこまで抑え目の演技だったものが、ここで大爆発。声を上げ叫ぶように咽び泣く様はまるで獣のようで、観てるこっちまで痛くなるのです。同情ではなく同調させられる慟哭。
でね、そんな鋼太郎さんマクダフに柳楽くんマルカムはもらい泣きしちゃうんですよ!!。これがもうくっっっっっっっっっっっっっっっっそ可愛い!!!!!。

わたし柳楽くんマルカムはもっとこう・・・屈折したというとちょっと違うかなぁ?シニカルな感じ?の役作りにしてくるかなーと思ってたんですが、予想に反して真っ直ぐで清廉で凛々しい王子でして、マクダフを泣かせてやりながらもついつい自分も泣いちゃうところに柳楽くんマルカムの心根が出てたよね。でもすぐ「哀しいだろうけどこういう時こそ戦いだ!」とか言うんだけどさw。

ていうか鋼太郎さんの声が結構荒れてたんですよね(それでも台詞はちゃんと聞こえるところが鋼太郎さんのすごいところなんだけど)。で、このマルカムをマクダフが説得するシーン(このためだけの仏像×5体とか贅沢だわー)からの慟哭を見ると声の状態に納得できちゃうんだけど、同じレベルで声張り上げてんのに柳楽くんの声はぜんぜん荒れてないんだよね。凛として力強く、まっすぐ届く声なの。
この舞台ってとてもいい声の人が多かったんだけど、シェークスピアの台詞を口跡よく言える(台詞聞こえの良さ)ことも加味すると、柳楽くんが一番良かった。これはちょっと驚きでした。

そんな柳楽くんに「私はまだ女を知らない!(キッパリ)」とか言わせてくれてありがとう蜷川さん!!(笑)。
(これ、人間不信に陥ってるからって「俺女抱きまくりだしー」とか嘘つく意味がわかんなくって毎回笑っちゃうんだけど、柳楽くんはこのくだり結構なナチュラルっぷりで言っててそこもまたときめきポイントw)


観劇というものを楽しむようになって、それなりのお金と時間を使ってきましたが、この作品を生で観ることができたこと、これはそのご褒美のようなものだなーと、市村さんの仰る「人生経験」とは比べものにならないけれど、これまでそれなりの観劇経験を積み重ねてきた今だからこそ楽しめた舞台だったんじゃないかなと、そう思います。

最高に贅沢な時間を与えてくれた蜷川さんに心からの感謝を送るとともに、どうかどうかもうちょっと、できるだけ長く、蜷川さんの舞台を観られますようにと願います。