『カリギュラ』@新国立劇場 中劇場

もう12年も前のことなのに、蜷川幸雄演出のカリギュラの印象があまりにも強く、そんなつもりはないものの(むしろそれはしないようにしようとすら思ってた)そこかしこで長谷川博己のケレアや勝地涼のシピオンが思い出されてしまい、自分がどれだけ蜷川作品の影響を受けているのか、いまだその虜であるのかをまざまざと実感させられる時間でしたし、「カリギュラ」という作品を初めて目にする衝撃をわたしはもう持ち合わせていないことを踏まえても、観終えてしばらく言葉がでなかったほどの「何か」、あの時とはまた違う「何か」を得ることはありませんでした。

ここだけは問答無用で期待できると思った菅田将暉カリギュラは、孤独で、周りよりも自らを傷つけながら孤独の底へ向かって堕ちていくようなカリギュラで、激昂していても狂ったように笑っていても泣いているようなカリギュラで(実際登場した瞬間から死ぬ瞬間までほぼほぼ顔面ぐしょぬれ状態)、カリギュラという人物に対する印象(それは99%小栗旬カリギュラからできているものです)を変えるものではあったけど、菅田将暉という役者のイメージをぶち壊すようなものではなかった。むしろ逆。いかにも菅田将暉だよね、というカリギュラで、それを求めている人にとっては最高と言えるでしょうが、わたしが期待したのはいかにもではない菅田将暉だったので、まあ・・・そんな感じです。
「時分の花」という言葉が適切かどうかわかりませんが、カリギュラという役を演じるにはやはり「若さ」が必要で、その点「26歳の菅田将暉」はこれ以上ないドンピシャな配役だし出会うべくして出会った作品と言っても過言ではないと思うのですが、また蜷川さんを持ち出すけれど蜷川さんのロミジュリで演じたロミオほどの煌めきを感じることがなくって、ロミオとカリギュラじゃ役柄が違いすぎて比べるほうが間違ってると思われるかもしれませんが、わたしが言いたいのは役が持つ輝きではなく役者自身が舞台の上で放つ光という意味での「煌めき」のことで、これだけ強烈で苛烈な役だというのにロミオの時ほどの引力は感じられませんでした。
だから、今の菅田将暉で蜷川版カリギュラの再演を・・・と言いたいところですが、それは言わないでおきます(ほとんど言ってるけど)。


シンプルで渋い色味のセットのなかでカリギュラが登場するときの赤を効果的に使った演出はとても好み。キービジュアルからしてもっと「赤」をふんだんに使うのだと想像してましたが、ここぞというところでのカリギュラとセゾニアの衣装と食卓にてんこ盛りの花びら(それをカリギュラがまき散らす)、それから狂ったようにカリギュラが叩きまくる鉄板ぐらいで全体的に抑制が効いていて、舞台美術は素敵でした。