病院らしき廃墟のようなセットにひとりまたひとりと俳優が現れ、みんなどこか虚ろに見える中ヘリのモーター音が聞こえ、そして激しい爆音が響く
・・・というオープニングは今年の初めに観た白井さん演出作品を思いださずにいられなかったわけですが、ペール・ギュントというひとつの命がこれから紡いでいく、紡いでいくのかもしれない物語を描くにあたり、なぜこんな荒廃した病院であり世界から始まるのだろうかとか、ペールの人生(生涯)を描くのに「母」と「女」をキーワードにしたことや、トロルという種族をああいう者達として描いたこと、上着や帽子などパッと見えるものはその時々に見合った扮装なのにボトムは常にジャージであることなど、考えてしまう要素はたくさんあるんだけど、でもよくわからない、というか、考えようとしても考えられませんでした。考えようとしてもいつも途中で考えることを放棄してしまうというか、考えられなくなるというか。
それはなぜか。
内博貴が美しいから。
もうそれがすべて。それ以外になにも残らないといっても過言ではない。
ピロキ演じるペールという男は正真正銘のクズなんですよ。明日花嫁になる女を連れて逃げてセックスして、やるだけやったら「もうお前帰れ」と言い捨てるわ、ナイスバディの妖精に会えば速攻口説いて孕ませて、お腹の子はどうするの?と聞かれたら「里子にでも出せよ」と言ってのけるわ、人妻を「三人まとめて抱いてやる」わ、とにかくもう女喰いまくりのクズなんですよ。
でもそれがものすごい説得力。ペールとは“そういう男(という設定)”だってな説明は不要なの。だって“観ればわかる”から。
これだけの美貌があって口が上手けりゃそりゃあ女なんざ入れ食いですよねと、たとえ失敗したっていくらでも次がある(と思っちゃう)ってな話ですよねと、問答無用でそう思わせるだけの内博貴のビジュアル。それだけでこの舞台は成立してた。
1幕で橋本淳くんや加藤和樹さんを含め思いのほか多いアンサンブルが舞台上でどんちゃん騒ぎしてるなか舞台最奥からペールが歩いてくるというシーンがあるんだけど、人種が全く違うんだよね。その気はなくとも目が引き寄せられてしまう。もちろんそういう演出が施されてはいるのでしょうが、それがなくともきっと観客の目はペールをとらえる。そう確信できるだけの存在感はやっぱりすごい。
そんなピロキが生着替えしたり上裸でうろうろしたり意識失ったピロキを男達が脱がせて着替えさせたり、喘ぎまくったり4Pしたりするわけですから、そりゃあ・・・ゴチャゴチャ考えてる場合じゃねーってな話ですよ。ええ。
だから、期待していた「白井晃に鍛えられた内博貴」というわけではなかった。と思う。
だけど「内博貴でなければできない役」ではあった。と思う。
白井さんの演出と内博貴の主演と、それからペール・ギュントという作品。この三つの要素がどういう順番で決められたのかはわかりませんが、内博貴という素材の活かし方としてはこれまでに観た舞台上のピロキの中で最も優れていた。と思う。
ろくでもない息子といいながらペールに深い愛情を注ぎ続けた前田美波里さんが演じる母親との別れのシーンはナイーブさと激しさが同居するピロキならではの哀しみを見せてくれたし、その上ほんの僅かな時間とはいえ歌うしステップも踏むし、ピロキ目当てとしては満足。どこを切り取っても美しすぎるクズ野郎ですこぶる満足。