歌舞伎NEXT『阿弖流為』@新橋演舞場

感想を書きたい、書いて残しておきたいという気持ちは溢れ迸るほどありまくりなのに、あの熱量をあの興奮をあの感動をあの恰好よさを!!表現する言葉がみつかりません。この世に存在するありとあらゆる言葉を尽くしても、この舞台を観ていた瞬間の楽しさと幸せは言い表せない。

新感線の舞台の中でも中島かずきさんの脚本の中でも非常に評価が高い作品であり、主人公のアテルイ改め阿弖流為を新感線版と同じく市川染五郎さんが務められる。これだけである程度のものを見せてくれるであろうことは確信してたし、堤真一さんが演じた役を中村勘九郎さんが、そしてヒロインを中村七之助さんと、ここもまた期待しかありませんでした。さらに幕が上がってからの絶賛の嵐。なので期待値としてはこれ以上ないマックスバーニン状態で席につきました。

もう・・・そんなわたしの期待を超えるどころじゃない、超越でしたわ。

串田さん、野田さん、蜷川さん、三谷さんにクドカンさん、これまで歌舞伎外の演出家による作品を何作か拝見しましたが、それらが「歌舞伎」の枠内に収まっていたように、いのうえさんによる阿弖流為も「歌舞伎」になるんだろうと思っておりました。
そしたらどうよ、思いのほか新感線でした。OPでタイトルどどーん、鳴り響くギターとドラム、激しい殺陣に剣と刀がぶつかりあう効果音、そして熊子。まるで新感線でした。

でも歌舞伎なんだよ!。筋書の中で「歌舞伎役者がやれば歌舞伎になる」という言葉が何度も出てくるのですが、慣れ親しんだ新感線の空気感であるのに歌舞伎なの。ちゃんと歌舞伎なんですよ。

見得やだんまり、スピーディな殺陣の間に歌舞伎の型を決めるなど歌舞伎の技、歌舞伎の要素が随所に取り入れられているのですが、それが全く浮かないんだよね。むしろ型の美しさであり外連味が激しい動きをより一層ひきたてる。加えて歌舞伎役者さんだけあって「柔」があるんですよね。戦いの中に「剛」だけじゃない「柔」がある。

なによりもそれを演じる歌舞伎役者の躍動感よ。染五郎勘九郎七之助が痺れるほど格好良く、狂いそうなほどに美しい。

新感線の良さと歌舞伎の良さ、新感線の魅力と歌舞伎の魅力、両者ががっぷり四つに組み合った結果『歌舞伎NEXT』が生まれた。まさに次代の歌舞伎がここにありました。
歌舞伎を好きになってまだ日も浅いわたしではありますが、そんなわたしですら歌舞伎の未来には不安を覚えてしまうんですよね。役者がどれだけ芸を磨いても、それを観る客がいなければ意味がないわけで、今の劇場を見る限りこのままいけば先細りになる・・・としか思えないから。
でも阿弖流為を観て希望が生まれた。これを観れば歌舞伎に興味を持つ人は少なからずいるはず。だってこんなにカッコいいんだもん。歌舞伎役者はこんだけすごいんだもん。
とにかく必要なのはとっかかりなんです。面白いなって思ってもらうことなんです。そこから次に繋がるんですよ。
こういうものを作れる人達がいること。こういうものを作ることができること。それは歌舞伎界にとって希望だと思う(まぁ・・・学割作るとか料金はもうちょいどうにかならなかったかなーってのはあるけど)。
染さんがほんとうにやりたかった作品が確実に種を蒔いたこと。そしてそれはきっと芽吹くであろうこと。わたしごときがこんなことを言うのはおこがましいと自覚したうえで、それでもわたしはそれが心から嬉しい。

それからいのうえさんとかずきさんな!。なんちゃって歌舞伎やってた人たちがまさかここまでキメてくるとは!!!。中村屋贔屓の方々は多少アレでも受け入れてくれるだろうとは思ったけど、マジ絶賛の洪水すぎて逆に怖いわ!!w。新感線はうるさいからヤダっていってたわたしの母親とか大大絶賛で、普段だったら帰り道に誰々さん良かったねーってな会話をするぐらいなのに観劇後数日たっても未だにこの作品の話するもん。特に熊子の(笑)。

新感線版では超簡素なセットだったけど16500円も取ってそれじゃあさすがにマズイだろうと思っていたらそれなりにちゃんとしたセットでホッとしたわけですが、かなり細かく場面転換があったものの廻り盆を多用したり幕前で芝居したりとテンポ良くみせていて、これは歌舞伎も見習うべきだとわたしは思う(すごい時だと4.5分舞台でいう暗転状態の時ありますからね)。そしてなんといっても附け打ちさんですよ!!。附け打ちの新たな可能性がここにあった!!(附け打ちさんと熊子のハイタッチは超興奮したw)。

かずきさんの脚本はもう・・・見事と言うほかない。わたしは基本初演厨でして、なんだかんだで初演だよねってな人間なんです。なのでステージは異なれど新感線版を超えることはできないだろうと、実はそう思っていたのです。でも今回ばかりは文句なしに歌舞伎版に軍配を上げます。その最大の理由は脚本の改訂。
新感線版(初演)と歌舞伎版(再演)の一番の違いは立烏帽子と鈴鹿一人二役にしたこと。それに伴い鈴鹿=釼明丸がなくなったこと。“七之助さん用”の改変かと思いきや、これがまぁここまで物語を鮮明かつ濃厚にする結果となるとは。

そしてそして熊子。蝦夷の民が自然と共存してることの象徴か、それともアラハバキの神との対比なのか、とかいろいろとその存在意義を考えさせられはするけどでもまぁお遊びだよねwってな印象でしかなかった熊子がまさかこんなにも涙を誘うだなんて・・・っ!!。
新感線だとどうしても色物もしくは汚れになりがちな役も素敵に生まれ変わってたし(特に新悟くんの阿毛斗は両拳突き上げてガッツポーズレベル!!)(いや新感線版もあれはアレでありですがw)、とにかくもう今回の改変は全てホームラン。

やっぱわたし歌舞伎も好きだけど新感線も大好きだからさー、いのうえさんやかずきさんが悪く言われるのは嫌なわけですよ。悲しいし悔しいのよ。でも歌舞伎好きとして認められないものは認められないわけで。だから観客がみんな立ち上がって拍手を送った瞬間は泣きそうでした。ああ・・・いのうえさんとかずきさんがついに「歌舞伎」を作り、それが受け入れられたんだなーって。

てか千穐楽亀蔵さんが熊子を纏ってカテコに登場されたもんだから涙ぶわってなって、さらに何度目かの幕があがったら熊子がひとりで三つ指ついて頭下げてて!!そのあと「あ゛、あ゛、あ゛、あ゛り゛か゛と゛」って挨拶したああああああ!熊子が喋ったああああああああああ!!ってもうマジ泣きのガン泣きでした(笑)。もうあたり一斉に熊子コール(笑)。
そんで舞台→本花→仮花→舞台を役者の皆様がお手振り小走りで一周してくださったのですが、最終的に熊子かなりヘトヘトのはぁはぁ状態でw、そしたら七之助さんが熊子の背中をやさしくさすって顔をのぞきこみながら「だいじょうぶ?」って言ってくれててわたしの脳内でなにかがはじけました。セブン優しいやさしいやさしいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっん><。(ていうかわたしも熊子とハイタッチしたかったよう!)
いやあ、開幕当初は賛よりも否のほうが多いような印象だった熊子がまさかここまで愛されヒロインになるだなんて、ちょっと震えちゃうよね!。

それはもちろん亀蔵さんの蛮甲あってのこと!!。
ひたすら蛮甲への愛を貫き通した熊子の最期は冗談抜きにボロ泣きモノだったんだけど、それは受け止める亀蔵さんあってのことなんですよ!!。
とにかく生き意地の汚い、生き抜くためには裏切りも厭わない、その時々で強いと思ったほうに臆面なく媚び諂う蛮甲だけど、そんな男を守り抜くためにあえて自ら「人殺し熊」となる熊子。そんな熊子の愛が最終的に阿弖流為を守って死ぬという、蛮甲の「生きざま」に繋がるんだよね。ずっとずっと「俺は生きる。生き延びてやる」と言い続けた男らしくなかなかくたばらない蛮甲が見せた最期の『生き意地』は最強にかっこよかった。そんな男を愛し守って死んだ熊子は幸せだったと思うの!。ダチ(阿弖流為)を庇って死ぬという、生き意地の汚い男にあるまじき最期を迎えた蛮甲を、ひと足早くあの世に行った熊子がギュっと抱きしめてくれてるに違いないと思うの!!(想像して今ちょっと泣いてるw)。あーもう蛮甲も熊子も大好きだー!!。

萬次郎さんの御霊御前と彌十郎さんの稀継も素晴らしかった。まるで美輪様かと見紛うごときビジュアルの御霊御前でしたが、これがまぁ似合うのなんのって!ネイルまで完璧よ!!。妖しさと美しさと強さと恐ろしさそれら全てを内包する帝の巫女っぷりに圧倒されたし、話の展開を知ってるからこそ彌十郎さんは果たしてどんな稀継像を見せてくれるのだろうかと思ってましたが、前半は彌十郎さんらしい話のわかる素敵な叔父上として存在し(田村麻呂がわんこのように慕うのも納得)、本当の貌を見せる後半は一転してとことん冷徹な男になると、この豹変はお見事。そんな二人が揃うと『敵』として文句なしの悪のオーラが放たれる。この舞台が「カッコいい」理由として、敵がカッコいいからってのはかなり大きいと思う。

それからわたしの裏お目当て(うら?w)である鶴松くんと廣太郎くん。新感線版では粟根さんと川原さんが演じた役をこの二人でってのがある意味一番の挑戦だと思うのだけど、だからまぁ役としては「田村麻呂の従者」それ以上でも以下でもなく、翔連通が“剣の名手”である設定もなくなってしまったようでしたが、二人とも真っ直ぐな若者で、なんか二匹の柴犬のようでw可愛かった。てか廣太郎くんおっきくなったねー(親戚ですかw)。鶴松くんが田村麻呂のことを「若!」って呼ぶのはサービスですよね美味しく頂きましたありがとうございます!!。

前述しましたが、新悟くんの阿毛斗も素敵だったー。凛とした佇まいはどこか中性的で、まさしく巫女。ていうかこれを観ちゃうと新感線版はなにがどうしてああなったというしか(笑)。
これまで特別感じたことはなかったのだけど、今回新悟くんの声の良さはとても印象に残りました。田村麻呂と和睦と結び蝦夷を守るために都へ向かう阿弖流為に「阿弖流為・・・っ」と呼びかけるの、母親のようであり恋する女のようであり、素敵だったわぁ。

今回最大の収穫だったのは七之助さん。完全に何かが宿ってた。主人公と共に戦う女と主人公に守られる女という対極の存在をいともあっさり(に見えた)演じてみせた。

わたし新感線版で鈴鹿という女が全く理解できなかったんですよね。田村麻呂はなんでこんな女に惚れてんの?そもそも阿弖流為はなんで蝦夷を捨ててまでこんな女と逃げようとしたの?って思った記憶があるんだけど、今回「稀継に殺されそうになった田村麻呂(後遺症で盲目中)を助ける」というベッタベタな設定に改変されておりまして、いやあ・・・・・・これは惚れちゃうよね田村麻呂くん!!と(笑)。だって超可憐で可愛いんだもん。「今食事の支度をしますね。・・・今日も山菜の粥でごめんなさい」とか言われちゃったらさー、そら押し倒しちゃうよね田村麻呂くん!!と(笑)。

阿弖流為が守った女が田村麻呂を助ける。その因縁というか運命というか、この鈴鹿を挟むとなんか納得できちゃうわけですよ。まさしく「運命の女」。
一方の立烏帽子。これはもうぜったいカッコいいだろうと思ってましたが、カッコいいの最上級ってなんていえばいいの?。立烏帽子の強さしなやかさ美しさ、アラハバキの怒り哀しみそして愛情、七之助さんがみせたそれらのすさまじさを言い表す言葉をわたしには見つけられません。

立烏帽子と名乗る鈴鹿の姿をした女が実はアラハバキの神であることが明かされる瞬間、アラハバキの神として顕れる瞬間、姿形はかわらないのに背後にめらめらと立ち上る何かが見えました。そこからの阿弖流為に、人間に、このクニに、憤怒の感情をぶつけるさまはまさに圧巻。かと思えば「なぜ私のために戦ってくれぬのか」と懇願し、「お前は冷たい男よのう」と嘆く。感情の揺らぎが変な言い方ですが狂おしく、最終的になんかもう神々しかった。この瞬間の七之助は神以外のナニモノでもなかった。

愛した男に刃を向けられるアラハバキの神は、「俺だけは、いつも貴女のことを想っている」と言いつつ刃を向ける愛しい男に向ける目はあまりにも切なくて哀しくってさあ、阿弖流為に対するなんともいえない気持ちに観てるだけのわたしですらアラハバキとともに「お前って男は!!!!!!」と胸がはちきれ死するかと思ったよねマジで。
この状況でその台詞って、これがほんとの殺し文句!・・・って馬鹿っ!阿弖流為のバカバカっ!!・・・とか思いながら、いつの間にこんなにすごい芝居をするようになったんだセブン!!と震えるわたしがいたわ。

中村屋を取り巻く状況っていろいろ大変そうなのでこんなことを願うのは心苦しくはありますが・・・・・・いつか新感線の舞台で七之助さんと太一の女装の麗人バトルが見たいです!!!。ひらひらと裾を翻しながらものすごい手数で斬り合うセブンと太一(共にポニーテール)とか財布爆発すること間違いなし!!。

染様の阿弖流為勘九郎さんの田村麻呂は二人の関係性も相まって燃えるわ萌えるわで最終的にまがおになりましたわたし。
新感線版の田村麻呂は演じるのが堤さんだけあって人間としても男としても完成された田村麻呂だったなと思うのです。悩める孤高の戦士・阿弖流為をその逞しい胸で時に受け止め時に鎮める大人の男であったと思うのです。今思えば、ですが。で、今回勘九郎さんが演じるにあたり、田村麻呂を「若く」書きなおしたそうなんですね。勘九郎さんに合わせて。

中島かずきによるあてがきの最高峰がここにあった・・・・・・・・・っ!!!。
なんだこのわんこ田村麻呂・・・・・・・・・っ!!!!!(ワナワナ)。
信じた相手に一直線で向かっていく純真さ、キラキラとしたつぶらな瞳。

とにかく真っ直ぐで真っ当で、健やかな男なんですよね。
堤さんの田村麻呂は完成されていたと書きましたが、勘九郎さんの田村麻呂は等身大という感じがしたんです。その正義感というか、義ならいいけと大義となると胡散臭いとか言ってのけちゃうところはともすれば青臭いと言えると思うんです。堤さんも同じ台詞を言ってはいたけど、堤さんの場合は大義というものを解った上で言っているように聞こえたのに対し、勘九郎さんの場合はなんかわかんねーけどなんか胡散臭いんだよ!ってな感じと言えば伝わるでしょうか?。そんな田村麻呂が阿弖流為と出会い鈴鹿と出会い、これまで見えていたものの裏にあるもの、それこそ『大義』とやらの本質を思い知らされ本物の『男』、クニを率いる『男』になる物語・・・ってのが今回わたしがこの舞台から受けた印象なんですよね。

で、染様の阿弖流為はそんな若くて青い田村麻呂を自由に飛び回らせてくれていたなーと。今回中村屋兄弟が素晴らしいってのは観た人全員の総意と言って構わないと思うのだけど、それは染五郎さんが二人を受け止め引き上げてくれたからだと思うんです。誰よりも二人の魅力を分っているからこそ本気でぶつからせてくれたんだろうし、そんなあーちゃんにいにいを「くっそかっけーなー!」と思うからこそ二人も絶対に負けないという闘争心でもって挑み、だからこそ勘九郎さんと七之助さんがこれほどまでに輝いていたのではないかなと。

なんかね、阿弖流為と田村麻呂のぶつかりあいに市川染五郎中村勘九郎のぶつかりあいが重なって見えて、だからもう両花での名乗りあいはマジやばかったよね。もうブッッッッツワって涙出ましたわ。
だってもう死ぬほどイイ顔してんだもんよー!!!。もうもうもうっ(今も脳内には鮮明にあの瞬間のクッソカッコいい二人の姿が存在してるので思いだすだけでこころがカッと熱くなる。そして涙腺ブワってなる)。

これだけ動けるカンタ(って呼ばせて)がここまで身体的に本気出せる場(機会)ってなかったと思うのよ。セブンもだけど。
それが与えられ、ドンと受け止めてくれる人がいる。出力全開でブッ飛ばせる。それってどれほど嬉しいことなんだろうって思うんですよね。
中村屋を取り巻く状況を鑑みるに、今このタイミングでこれほど激しい舞台をやるってのはもしかしたらリスクのほうが大きいのかもしれない。確実に歌舞伎とは違う筋肉を使ってるだろうし、それがこの先にどんな影響を齎すのかわかんないしさ。だけどやるなら「今」しかなかったと思う。そして今日本という国が改めて「国」としての在り方を自らに問うているわけで、そんなときに染五郎さん念願の歌舞伎版・阿弖流為を上演することができたこと、そこに中村屋兄弟が揃って参加したこと、そういうのぜんぶ『成るべくしてなった』のかなーって、新しい歴史が生まれるときってのはそういうものが全て噛みあってしまうんじゃないかなーって、観ながらそんなことを考えたような(興奮しすぎて自分で自分のあたまがわからなかったw)。

憂いをたたえ悩める阿弖流為も、悲劇の戦神である阿弖流為も、孤高でありながら崇高で、優しさと荒々しさが同居し、哀愁を纏いながら気高く凛々しくそして美しかった。
繰り返すけど、これを歌舞伎にしてくれたこと、こんな歌舞伎を作ってくれたこと、それは必ず歌舞伎の将来に繋がるとわたしは信じています。これを観ることができてほんとうによかった。