『ど根性ガエル』第2話

ヒロシがなぜ現在のような体たらくなのか、その説明がちゃんとなされて(それを理解できるか、納得できるかは見る人それぞれだとして)、そんな過去を持つヒロシは家出先で労働の喜びを知り(思い出し)、このままじゃ駄目だと一番嫌いな人間に頭を下げ、そいつの下で働くと決意した。
1話では正真正銘のクズニートでしかなかったヒロシが2話にして早くも成長を見せたもんだから、「もうこれ最終回でいいんじゃないかな?」とか思ってしまったわけですが、どっからどう見てもヒロシに勝ってるだろうゴリライモが「なんであいつには勝てないのかなー」っつってたし、ヒロシだけでなくゴリライモや五郎や京子ちゃん、梅さんやよし子先生たち登場人物全員がちょっとずつ成長したり変わったり、何か大切なものを見つけたり得たりするドラマなのだろう。
・・・・・・であればど根性ガエルでなくともよさそうだけど・・・・・・・・・・。
社会に出たら思わぬ壁というか理不尽というか、自分の頑張りが他人にとっては苦痛になる(こともある)という現実に直面し、ゆえに頑張ることをやめてしまったニート(30歳)がもう一度頑張ってみようかと一歩を踏み出す話としてはよかったと思うんだけど、わたしにはこれがど根性ガエルである必要性が理解できないんだよなぁ。2話まで見て、今のところはまだヒロシやピョン吉といった「キャラクター」を使ってドラマを作っているだけにしか見えない。初回はその再現度であり、成長に伴うキャラクターの変化であり、ピョン吉の実写技術、そういうものだけで楽しめたけど、この先は果たしてどうだろうか・・・という不安はある、かなぁ。
今回「あいつには勝てない」と思いながらもヒロシを受け入れるゴリライモの複雑な心情ってのが印象に残ったんだけど、それは子供のころからずっとヒロシに対してコンプレックスのようなものを抱いていたりするんだろうなーと思えるからだよね。そう説明されずとも、それを想像できるのはアニメという土台があるからなわけで、そういう意味ではこれがど根性ガエルであるからなのでしょうが、でもヒロシの変化に対するピョン吉と京子ちゃんの関わらせ方が言ってしまえば「傍観者」でしかなかったことを考えると、今のところはまだその設定を借りてるだけだよなーと。満島ちゃんのピョン吉がどれほど“アニメにそっくり”だとしても、それがどれほど高評価であったとしても、その評価は“ピョン吉実写化”に対する評価であってドラマ自体の評価とは違うわけでさ、そこを見誤らないで欲しいなと思う。