『ど根性ガエル』最終話

あーなるほど。何かを得るには何かを捨てなきゃってな言葉があるように、ヒロシが大人になるために捨てなきゃならないもの=ピョン吉というつもりで見てたけど(そう思わせる作りだったと思うけど)、捨てなくてもいいんだよと。何も捨てずとも大人になることはできる、生きる過程で捨てられるものもあれば捨てられないものもあって、捨てられないものは無理して捨てなくてもいいのだと。捨てなくったって生きていけるんだと。そういう話だったのか。
「喪失」は人それぞれなわけで、それを描くために、その象徴として「平面ガエルのピョン吉」という超級のファンタジーな存在が必要だったと、だから「ど根性ガエル」でなければならなかったと、そういうことか。
ていうか無理して大人になる必要なんて別にないってか、何をもってして「大人」なのかと。
毎回ピョン吉が死ぬしぬってなことを描き続けてきたわけだけど、結局元通りで、そういう意味では1話からなんにも変わってなくって、でもそれはヒロシが望んだことで、1話から、いやそれ以前からずっと続いてる「日常」を今日もお気楽に生きるだけだと、それでいいんだと。誰だって生まれてきてよかったし、生きてていいんだし、行きつく先は死なんだけど、それまでは、そのなかでなにかを失う必要なんてないし、どんな人間だってそうやって生きてていいんだと。
ざっくりとまとめるならば、「ど根性ガエル」を題材にして「日常」を生きることを描いたってことか。
ヒロシにとってのピョン吉にあたるものは人それぞれで、何も失わずとも子供のまんまでも生きていけるしそれで自分が大人だと思えば大人だし、自分の物語は自分で書き続ける限り終わらないのだと。ピョン吉は寿命がーとか死んだらどうなるーとか言うことで自らの物語を終わりにしようとしてたから(そしてそれをヒロシも受け入れちゃったから)剥がれちゃったのだと。それをわかりやすく描いたのが偽ヒロシということで。
間違ってるかもしれないけど、それを面白いと思えたかどうかは別の話として最終的にわたし的落としどころが見つかったので、そういう意味ではスッキリ終わったと言っていいかな。