『僕たちがやりました』第8話

そら市橋死ぬわな。ゴミみたいなやつらをゴミ扱いしてたけど自分もゴミになったんだからそれ相応の扱いをされて当然ってのも非常によくわかってらっしゃるとしか言いようがないし、まぁそもそも「他人をゴミ扱いする」「ゴミはゴミ扱いされて当然」って考え方自体に問題があることには全然思い至ってないんだけどさ、そこはもうそういう人間だからああいうことが出来たんだろうし、最高の友達が出来たけど死ぬっていうなら止めないよとしか。そこであんなメッセージ残されて死なれる最高の友達の気持ちを考えられる人間だったら他人をゴミ扱いなんてしないだろうし(これ、実は心のどこかに二人を恨む気持ちがあってあてつけという意味合いもあったりするのかなぁ?)。
でもあれかな、その最高の友達が自分から全てを奪った奴だと知らずに死んだのは市橋にとってせめてもの救いかな。市橋に救われるべき要素などないのかもしれないけど、最後の情け的な意味でそう思わなくはないです。
ってなわけで、市橋と本当の友達になったつもりのトビオですが、こいつがずっと言おう言おうとしてたのって「蓮子と付き合ってる」ってことだけで、自分が爆弾犯(の一人)であることについては全然心痛めてる風がないんだよなぁ。これほんっとにわかんない。どの面下げてエールを送れるのかと、こんな身体になったけどトビオと蓮子と友達になれてよかったとか言われて嬉しそうな顔できる神経がさっぱりわからんわ。
市橋が死んだことでトビオはようやく自分のなかの罪悪感に耐えきれなくなるんだろうし、伊佐美もマルもパイセンもそれぞれ『絶望』を味わったことで「僕たちがやりました」になるんだろうけど(罪の重さは同じでも絶望の重さってか理由が違いすぎて、さらにそこに市橋のソレを入れると「絶望ってなんだね?」と問いたくなるけど)、それはそうと予告の両サイドに「輪島に復讐」とかいう文字があった気がするんだけど、トビオたちがそれを理由に真実を明らかにするつもりだとしたらなんつーか、お門違い?だと思うんだけど。頼んでないのに真犯人でっち上げてくれちゃったから自分たちは罪を償う機会を失われたと、だから今地獄の苦しみ味わってるんだと、それぜんぶあいつのせいだ!なんてキチガイ話になったらどうしよ(笑)。
しかし古田新太の輪島。市橋の悪行もトビオたちのクズさもまったく太刀打ちできない次元が違う『悪人』っぷりで、この存在は面白い。市橋がマルに殺し合いさせたのもトビオたちが爆弾仕掛けたのも「子供の遊び」のつもりだったのに、それが巡り巡って二桁の死者を出す大惨事になっちゃったってな話なわけだけど、そこに本物である輪島がいることでまさに「ガキの話」になっちゃうんだよね。