『最高の教師 一年後、私は生徒に■された』第7話

生徒たちに考えさせはするけど、結論を求めることはせず「責任を取るのは大人のやること」だと里奈ではなくことなかれ中間管理職だと思っていた荒川良々の教頭がキッパリ言い切ったのは良かったけど(あと校長との電話を終えたところで見せた「怒り」もよかった)、細田善彦と犬飼貴丈と長井短をひとまとめにしてその隣で頭下げさせるだけだったのは心底ガッカリ。
せっかくこれだけクセもアクも強めの俳優を揃えておいて「里奈以外の教師たち」というだけに留めるのはいくらなんでももったいなさ過ぎるからまだ「なにか」あるんじゃないかとは思ってるけど、でも今回教頭が学校であり教師であり大人として問題に向き合う「覚悟」を見せちゃったからこのうえ教師個人を動かす(物語の)余地があるようには思えないんだよな・・・。

ていうか、生徒に「問題に向き合うこと」を求め同時に教師たちも「向き合おう」とはしてるけど、そもそも向き合うべき「問題」ってのは鵜久森が死んだことなのか?。
1周目こそ自分で命を絶ったし、それはクラス全体から虐められてたからなのでしょうが、2週目は鵜久森自ら「変えよう」としていたし、実際鵜久森自身が変わる(変わろうとしていた)ことでクラスの空気は変わっていたしその影響は話し合いの場で起立した生徒たちには確実に及んでいたわけで、それなのに「死んでしまった」のは『誰かにあの場所に呼び出されなにかを言われて揉み合いになって落下してしまった』からだと視聴者は知ってるわけじゃん?。
教頭は「生きようとしていた」と訴えたけど、生きたいと思っていたのに自ら命を絶つしかなかったってんなら向き合う理由になるけど、生きようとしていたけど(あえてこの表現をするけど)殺されてしまったことについてなにをどう向き合えと言うのかと思うんだけど。

そんな事情であることは“犯人”を除き劇中では誰一人わからないし、このクラスに虐めの土壌があって鵜久森がその対象になっていたという事実があるうえで率先して向き合いたいと思う人もいれば自分の将来が大切だから事を荒立てずにやり過ごしたいと思う人もいて、そういうのぜんぶひっくるめて鵜久森の死という現実にどう向き合うのか、向き合うべきなのかと考えることが既に向き合ってる、向き合おうとしてるってことなんだろうけど、繰り返すけど鵜久森さんの死因については(視聴者目線では)確実にそこに特定の個人の『悪意』があると解っているわけで、それをクラス単位で話し合うのは違うというか、そこまでいくと個人の問題だろとしか思えないので微妙にピントがずれてる気がしてならないのだが。