貫井 徳郎『邯鄲の島遥かなり 上』

明治維新の直後、神生島に住民にとって特別な一族である一ノ屋の「イチマツ」が帰ってきた。住民たちが「くが」と呼ぶ本土から戻ってきたイチマツは神か仏かと思うほどの美貌で、島中の女たちは次々とイチマツに魅入られていく。

という始まりで、イチマツとねんごろになった女には「痣」ができ、その痣はいつまでたっても消えず、イチマツの「女達」は争うこともなく仲良くみんなでイチマツから貰える幸せを分け合っているのですが、ハッ!?まさかこれ吸血鬼モノなのか!??と前のめりになるもそんな話ではなかったです。本土時代のイチマツはいろいろあって新選組に加入し永倉新八の下で活動し、新八が近藤勇と袂を分かつことになったタイミングで共に隊を離れて島に戻ってきたという経緯も描かれるので変若水を飲んで羅刹になっちゃった可能性を捨てきれなかったんだけど、まったくもってそんな話ではなかった(笑)。

そんなイチマツは戻ってきたときと同様にある日突然島から出て行ってしまい、そのあとはイチマツの子供たち、そしてその子供たち(イチマツの孫たち)の物語になります。
一ノ屋が特別とされる理由は数十年に一度大層美しい男が生まれ、その男は島に幸せを齎すという言い伝えがあるからで、それが「イチマツ」という男であったわけですが、その子供たちもそのまた子供たちもイチマツのような大層美しい男には生まれず、でも子供たちのなかからイチマツとは違う方法で「島を幸せ(豊か)にする者」が出る一方で「一ノ屋」の呪縛に囚われ苦しむ者もいて・・・というこの物語がこの先どう展開するのだろう。
上巻の始まりが1868年頃で1940年頃で終わっているので、中巻も50年下巻も50年スパンの物語となるならば最後は未来の話になるのだろうか。


「邯鄲(かんたん)」なる言葉は初耳なのですが、調べてみたら「邯鄲」単体ではこおろぎの一種のことで(キングダムに登場する重要な場所の名前でもあるみたい)、「邯鄲の夢」という言い方をすると人の世の栄枯盛衰は儚いものだという意味になり、「邯鄲の枕」という言い方をすると就寝中に盗難の被害にあっていた(目覚めたらなにもかもなくなっていた)という状況を表し、「邯鄲の歩み」という言い方をするとむやみに人のまねをしないようにという意味になるそうで、じゃあこの作品のタイトルはなにを意味するかといえば、上巻を読み終えた時点ではまだわからない。

神生島はなんとなく瀬戸内海あたりに浮かぶ島をイメージしてましたが、上巻の最後に関東大震災が起きて島も壊滅的な被害を受けるので、関東近辺の太平洋に浮かぶ島のようです。そういやイチマツはくがに行って最初に向かったのは江戸で、そこから京に下ったってな描写があったわ。瀬戸内海ならまず京に行くもんね。