1週間前に見たときはセクロスだの童貞だのチンコだの勃起だの言ってた神谷さんですが、やっぱり本職だと素敵だわー。
いやセクロスだの童貞だのチンコだの勃起だの言う神谷さんもだいすきですがw。ていうか最後のは神谷さんではなく中村悠一さんでしたがw。
今回の神谷さんの役は「浦島太郎」で、わたし浦島太郎って漁師のにーちゃんが虐められてた亀を助けたら竜宮城に連れていかれて戻ってきたら老人になってました(人間界ではそれだけの時間が経過してました)ってなあらすじを知ってるぐらいで別段なんの思い入れもないんですが、神谷さんの浦島太郎はキャラ属性で言うならば「アニキ」とか「ワイルド」とかそんな感じの役作りでして、え?浦島太郎ってそういうキャラなの??と思いつつもあまりそういう神谷さん(足をがばっと開いて膝に肘ついて台本持ちながら斜め下から他人に鋭い眼光を向ける感じ)を生で見たことがないのでそういう意味では見応えありましたが、『朗読劇』としてはちょっとどうかなーという気が。ていうかなんか去年とやってることがあんまり変わらなくねーか?という気がしてならなかったんですが。設定とか展開は違うんだけど、やってることに変化であり進歩が見られない気がしたんだよなぁ。
変化や進歩を目指しているつもりはなくて、年一の行事感覚でやってるというならまぁこれでいいのかもしれませんが、神谷さんが挨拶で仰っていたようにこれは「本職」としての場であるわけでさ、キラフェスが内容・質ともにあれだけ目覚ましい進化を遂げているのに対しリーライはそれが見えない(感じられない)ってのはやっぱりもどかしさを覚えるよなーと。声優使って商売しといて音楽レーベルだからってのは通用しないでしょ。
まぁ個々でリハを重ねられる(演出やらテーマやらを個人レベルで考えられる)キラフェスとは違って全員での読みあわせすらそれこそ公演前日とかそんな感じのスケジュールなんだろうからやれることにも限界があるのでしょうが、でも、でもさぁ・・・・・・脚本はもっとどうにかできるんじゃないの?と。
繰り返しますが出演者全員声での演技は本職なわけで、それこそ結構な要求でもこなせてしまう人たちじゃないですか。スケジュールの問題含め演出上やれることが限られているとしても、脚本上はそうではないと思うんです。声の演技だけならもっともっとできるはず。それこそ一人が複数の役をやることだって可能だろうし、声の演技だけでもっと凝った世界観だったり物語だったりを描くことが出来ると思うんですよね。それなのに演出含めなんでこんな子供騙しみたいな話をやるのかなーって、これだけの役者を揃えてこれってほんと勿体無いと思うんだけど。
演出の人が自分のところの劇団でやってる作品を朗読劇にアレンジしたものがコレとかって見聞きしたけど、それはやっぱり本来舞台で全身を使って演技するための脚本なわけですよね。それを「朗読」という形にしようとするからどうしたって説明パートが多くなる。それ以前に、この作品が面白いか面白くないかは別としてそもそもこの人の脚本って朗読向きじゃないんじゃないかと思うんだけどなー。
二日間(4公演)のために完全オリジナルの脚本を用意するってそんなに難しいのかなぁ?。なんならへんてこな演出とかいらないんですよ。前回のカフェのセットは必要だったと思うけど、今回のラストに出てきた火山?みたいな岩山のセットとか意味わかんねーし。SOUND THEATREぐらいの演出をやってみろとまでは言いませんが、こんなチンケな演出だったらないほうがよっぽどいいと思うわけで、演出のことも考えて今の体制だというのならばちょっと見直したほうがいいんじゃないかというか、客が見たいのは演出ではなく演技のほうなんだってことを理解して欲しいなーとか思いつつ、でも最初に書いたようにお目当てキャスト目線としてはちゃんと満足できてしまう部分もあるわけで、だからきっと来年も(チケットが取れれば)観るであろうわけで・・・ってなことを思った今回のリーライであった。