感想を書くべく思い出そうとするのだが、浮かんでくるのは夜の屋敷で月を眺めながら1本の柱に背中合わせで凭れかかり酒を飲む染五郎清明と勘九郎博雅の姿ばかりなのである。
やや荒れた、でもなぜか落ち着く庭先の濡れ縁で、博雅は笛を吹き、清明は博雅の笛の音を聴きながら管狐と戯れる。そして月明かりの下“柱を挟んで”背中合わせになる二人。
夢枕獏さんの原作は読んでいるもののそこまでの思い入れはないわたしですらこのシーンのガチ感には震えたわ。
この物語はざっくり要約してしまうと『平貞盛が患う原因不明の瘡についての調査を依頼された安倍清明。さらに将門の遺灰を保管する雲居寺の住職から遺灰を狙う者がいると知らされ、将門を討伐した将門のかつての盟友・俵藤太とともに調査を行う。その頃都では妊婦が斬殺され腹の子を奪われる事件が多発。両者を結びつけた清明が辿りついた真相とは、将門の愛娘である滝夜叉姫を使い20年前に死んだ平将門を復活させ都(天下)を我が物とすべく興世王の企てであった。』とまぁこんな感じですかね。結構長い原作なのでかなり強引な要約ですが、なぜこんな要約をしたかと言うとこの物語に於いて『月明かりのした背中合わせになる清明と博雅』ってのは本筋とは全く関係のないシーンだからなのです。
博雅の笛の音によって関係者の心が浄化されるというラストなので最低限博雅の説明は必要ですが、博雅が天然貴公子でいい意味で空気読めないんだけどそのKYが場を和ます男で笛の名手であるってことは清明にくっついて回るw過程で理解できるし清明との関係性も見て取れるので、時間(尺)には限りがあることを考えれば端折られても仕方ない・・・シーンだとは思うのです。
でも気持ち的には絶対に必要であるわけで!ていうかこれこそが陰陽師だと思うわけで!!。
なので清明と博雅のキャッキャウフフ(と書いてしまおう!w)をこうまでじっくりしっかり見せてくれて、いちまんはっせんえん払った甲斐がありました!!!(笑)。
つーかね、もうピッタリなんすよ二人とも!。烏帽子被った両のこめかみから髪をひと房ハラリさせてる染の清明は妖しげな雰囲気・・・というかもうはっきり言っちゃうけど常に口元に含み笑いを浮かべ視線が粘着質な変態さんっぽい感じ(笑)がまさにわたしの思い描く変人清明でだな!。そして勘九郎の博雅に至ってはアテ書きか!?ってなぐらいピッタリってか敢えてこの表現を使うけど2次元から飛び出したかのごときイメージそのものなんすよおおおおおおおおお!!。なんつーの?この魑魅魍魎が跋扈する世界で一人染まってない・・・というか分かってない(笑)感が素で滲み出てんのw。
わたし歌舞伎に限らず原作アリもので重要視してるのが登場人物の「並び」なんですが、その点染清明とカンク博雅は完璧と言っても過言ではないかと。特に清明館から次の場面に移るシーンで、盆を回してセットを移動させつつ清明たちは庭をそぞろ歩く感じで次のセット(裏のセット)に移動するんですよね。この何気ない歩くシーンがほんっとに素敵なの!。
そんな染清明は「笛を聴かせてくれ」と自分からおねだりしたくせに笛の音そっちのけで管狐(ていうかパトラッシュwww)を呼び出し酒を飲ませて酔っ払わせてハイナハイナみたいな踊りを踊らせるのね。もうこれがクッソ可愛い!!染に可愛いという表現なんて使いたくないのに可愛い!!悔しい!!(笑)。つーかこれ絶対楽屋で誰かの子供相手にやってみせてる(笑)。
で、カンク博雅はというとなぜか清明に背を向けて笛を吹いてるから背後で清明がそんなことやってることに気づかないわけですよ!。コレ悶える!!!。
興世王を道連れに将門が黄泉へと還った(“かえった”という表現でいいのかな?)後、カンク博雅が清明に向かって唐突に「俺はお前を一番の友達だと思ってるぞ」とか言いだすのね。マジ空気読めないんだけどw、清明はそれに対して言葉を返さず博雅を見やるだけなのね。で、そのあとしばらくして(権太や滝夜叉姫とのやりとりがあって)からおもむろに清明が「俺を一番の友達だと思ってるのはほんとうか?」と真顔で聞くわけですよ。すると博雅は「ばっ、ばっかお前照れるだろう///」ってアタフタするわけですよ!(歌舞伎なんで台詞自体は違いますがニュアンスは完全にこんな感じw)。マジでたまらん!!。
・・・とまぁこのお二人に関してはまんぞくまんぞくだいまんぞく!だったのですが、タイトルでもある菊ちゃんの滝夜叉姫に関しては不満。
今回はもしかしたらもう二度とこの座組を拝めることがないのではないか!?と思ってしまうほどの花形勢揃いなので、それぞれにそれ相応の見所であり見せ場が与えられていて、もちろんそれは観客としては嬉しいことなんだけどでも最もその割を食っちゃったのが菊ちゃん滝夜叉姫だったなーと。ただでさえ原作ですらあんまり出番はないってのに維時とのロマンス方面全カットされてしまったもんで役として掘り下げようがないんですよね。
百鬼夜行とともに清明と博雅の前に現れる登場シーンは美しくて艶めかしいまさに一目で心を奪われてしまうミステリアス美人っぷりで思わず「ほわああああああっ!」と感嘆の声を上げそうになったぐらいだし、一方で興世王に騙し唆されていたことを知りそれは父ではなくあなたの望みであるし戦いはもう嫌だとキッパリ言いつつもでも父に遭いたいと願ってしまう心の間で苦悩する様はただただ哀しいまでに美しいんだけど、滝夜叉姫自体にドラマがないんだよね。だから海老蔵に肩を抱かれる菊ちゃんにハァハァしつつも(父娘ですがそれはそれでハァハァですw)滝夜叉姫に共感しようがない。
逆に、その心中を慮れる作りになっていたために原作よりも素敵に思えたのは七之助の桔梗。「桔梗は秀郷(藤太)にぞっこんだ」と言いながら(わかっていながら)もその女を妻にした将門と、渡せなかった櫛を長年ずーーーっと持ち歩き続けてた藤太との三角関係超滾る!!。こっちはバリバリ理解できるから夫から好きな男を守って(逃がして)無残に斬り殺される人妻セブンに全力でじったんばったんできるってなもんですよ!!。セブンの桔梗は愚かな女でも哀れな女でもないんだよね。ちゃんと自分の意思を持ったうえで、愛する男のために犠牲になる道を選ぶ女なの。原作とは違うけど、わたしはそこが素敵だと思った。
で、セブン桔梗が素敵だったのはそのお相手である松緑さんの藤太がカッコよかったからだってのは絶対にあると思う。将門との友情あり桔梗との恋あり清明との共闘ありと実質「主人公」はこの藤太なんだけど、それを担うに相応しい力強く勇壮な男。でも桔梗には想いを告げられないヘタレとか何このギャップ。松緑オタ大勝利すぎんぜ!。
特にすごかったのは三上山の大百足退治。頭+17節、つまり18人の人間でもって百足を演じるんだけど、これは見応えありました。六方もあってこれだけでも見る価値充分。
あー!そうそう!見る価値で思い出したけど、モフモフ白狐たちを使っての将門と興世王五芒星呪縛は斬新すぎた(笑)。この発想はなかったわ(笑)。
そして歌舞伎の舞台でこの表現はどうかとは思いつつも役というよりもキャラと言いたい亀蔵さんの道満様には裏MVPを差し上げたい!。
道満様については劇中でほとんど説明がなされないんですよね。ていうかシリーズとしては欠かせない人物であるもののこの作品単体ではなんか清明の前にちょいちょい顔だしてくるオッサンってだけだからw説明しようがない(説明する場所がない)。それなのになかなか奇抜なお召し物なうえにいちいちちょうちょいっぱい連れてらっしゃるんで登場した瞬間「あの人なんぞ・・・!?」などよめきと笑いが結構すごかったw。
そして話が進むと観客は薄々解ってくるのです。「ああ、この低音の素敵ボイスなオッサンはツンデレなんだな」と(笑)。
ていうか後ろの席のお嬢さんが幕間で「あれは蝶の精?」と恐らく真顔でお連れさんに聞いててお弁当噴きだしそうになったわよ(笑)。
海老蔵将門とラブりん興世王の悪役コンビは相乗効果なのかなんなのか異様な迫力でした。俵藤太を主人公と前述しましたが、将門と興世王はまさしく「主役」。目ひんむいて本気で人肉貪ったり斬られら首にすらなにかを注入する勢いの海老蔵に“濃さ”で負けないラブりんはこれ確実にオカマの成果かとw。
てか一度そういう目線で観ちゃうとこの話って秀郷と将門の友情を超えた絆(わたしはそれを愛と呼ぶw)に嫉妬し歪んだ愛情を募らせた興世王が将門を蘇らせてワタシのモノにするんだからねッ!・・・ってことだよね?と思えてきてだなw。将門の妻である桔梗を惨殺し、その娘・滝夜叉を使い切ったところで残酷な真実を明かし絶望させたところで殺そうとするのも邪魔な女は排除はいじょ★ってな風に受け取れなくもないしーw。
舞台の出来そのものは正直言ってまだまだ・・・かなぁとは思いました。まず時系列が分かりにくいし(スクリーン使って「○年後」と説明してたんだけど、こういう表現するしかなかったんだろうなーってぐらい飛ぶしね)、その分かりにくい時系列の中で描かれる複数の話を最終的に一つにするための“視点”がないもんだからカタルシスが生まれないのね。なるべく原作に沿おうとする努力は見て取れるんだけど(それは悪いことではない)、これだけ揃えた花形それぞれに見せ場を作ろうとしたために筋が定まらず却って印象としてはとっ散らかってしまったかなと。
題材や染五郎さんの存在なんかからどうしても新感線を想起してしまうのですが、だったら新感線の舞台見ればいいじゃんと言われることを覚悟の上で・・・新感線の舞台にある多少強引でも『ねじ伏せる感じ』がなかったかなーと思った。前述のカタルシスが生まれないってのはそういうこと。
でも繰り返しますが原作の世界観をできる限り舞台上に作り上げようとする想いってのはひしひしと感じられたし、その点においては期待以上と言えます。客席含め基本暗い空間で舞台上も殺風景というかがらーんとしてることが多いんだけど、平安の都ってきっとこんなんだろうし、だからこそセットの組み方使い方、それから月明かりなんかの照明がとても効果的でした。なんていうか、『歌舞伎界の未来のために新しいものを作ろう』という意気込みがみっちり詰まってるなと。とにかく『花形を中心にゼロから作った作品を歌舞伎座で上演する』ことに意味があるんだよね。だから今回はこれでよかったと思う。
でももし再演できるのならば、次はもっとブラッシュアップしたものを見せてほしい。出来る余地はいっぱいあると思うから。それに、これを継続していかなければせっかくの意味が意味をなさなくなってしまうもん。今のまんまだと確実に歌舞伎の観客数は減るわけで、それを一番“危機感”として感じてるのがこの世代だと思うのだけど、コクーンや明治座でやることも大事だけどやっぱ『歌舞伎座』は違うんですよね、観客の気持ちとして。だからわたしは初めて歌舞伎を見る人にはぜひ歌舞伎座で見てもらいたいし、そのための1つの選択肢として、染五郎の清明&勘九郎の博雅による陰陽師コンビはコンテンツとして計算できると判ったってのは大きいよね。それこそが最大の成果だと思う。