『PICU 小児集中治療室』第7話

わたしはときに空回りもするけど心を燃やして子供の命を救うことに邁進するしこちゃん先生が、ようやく丘珠病院に勤務することになったネイビーのスクラブが似合う!!!悠太と武四郎が協力するところが見たいんであって、末期癌の母親を救えない(他のがんならともかくすい臓がんのステージⅣ+骨転移ありではさすがに無理だろう)医者の息子が見たいわけじゃねーんですよ。

母一人子一人で、カレンダー通りの勤務で定時に帰宅できるとしても自宅で末期癌の母親とともに暮らすのは心身ともにハードだろうに、息子は命を預かる医者なわけじゃん。それもいつ何時一刻を争う患者が運ばれてくるかわからない職場であるわけで、「だからこそ」息子に身体の状態を知られたくないというならまあ理解できるとしても、息子にバレてしまったからにはなるべく息子の負担にならないようにするのかと思いきや「治療はしない」「この件について話し合うつもりはない」ってなにそれと。
息子思いなのにこれだけ頑なに病院に行くことすら拒絶するからには何か理由があるのだろうと思ったのに「癌治療に悪い思い出があるから」ってなんだそれと。

まだその「悪い思い出」の中身はわからないし、わざわざ自分と息子のために自宅を訪ねて話をしに来てくれた上司の先生をやんわり受け流すために「悪い思い出があるんですか?」という質問に「はい」と答えただけで本当は別の理由があるのかもしれないけど、どんな理由があるにせよ現実問題として「自分一人」で残りの時間を生きるのは無理なわけで、そこいらへんどう考えてるんですかね?。

と思うんだけど、繰り返すけどわたしはそんな話を見たいんじゃないんだよ。

患者にだって希望はある。それは移植を望まなかった圭吾くんも武四郎の母も同じ。それは解る。

医者にも家族はいるし事情はある。仕事以外の問題も悩みもある。
「志子田武四郎」という主人公に対してそこを描くことも大事だとは思うけど、それがここまでヘビーなものである必要はないだろう。

薬を見た・見られてしまっての母と息子のやりとり、うどんを前にしてのやりとり、植野先生という他人を挟んでのやりとりはどれも見応えはありました。凄みすらありました。
でも大竹しのぶ吉沢亮のガチンコ親子ならば思いっきり「そこ」に焦点をあてた作品でやってくれよとわたしは思う。
母親に尺を使うことで例えば今回の医療ネグレクトの子の問題がしっかり掘り下げられたとは言えないわけで(これは舞の話として次回以降に持ち越しなのかもしれませんが)、結果的にどっちつかずになってしまうんじゃないかなという気がする。