パルコ・プロデュース2022『2020』@PARCO劇場

作 上田岳弘
構成・演出 白井晃
出演 高橋一生

という布陣による芸術エンターテイメント作品です。
高橋一生の一人舞台という扱いではありますが、実際には振付・ダンサーである橋本ロマンスさんとともに二人で舞台に立つ作品です。

わたしは上田さんの作品をまったく知りません。お名前を見たことがある(記憶にある)だけで、その作品に触れたことはありません。
で、舞台を観終えて、帰りの電車に揺られながら感じたことを書き残しておこうと思っていろいろと言葉を探すんだけどなかなか見つからなくて、家に帰って読んだパンフレットのなかにズバリの言葉がありました。

『独自の終末感』
『その終末(のようなもの)はいわゆるステレオタイプディストピアとは印象が真逆で、静謐で、視点によっては切なさはあれど、悲壮感は希薄』
『シビアな現実認識に対峙した上で、堂々と楽観へと全振りしようとするような意志を感じる』

これは波多野裕文さんという方がパンフレットに寄稿された文章のなかで書かれていることなのですが、マジでこれ。
この通りのことをわたしも感じました。

つまり、上田さんの作品世界が舞台で表現されていた、ということなのでしょう。
自分なりに表現する言葉が見つけられなかったぐらいなのでちゃんと理解することができたとは言えませんが、上田さんの作品世界の手触りは感じられたように思う。

そして様々な時代を生きてきた「僕=高橋一生」が「君(たち)=観客」に語るという基本スタイルのなかに歌ありダンスあり(がなり声で歌うのズルいぞ!)、映像を駆使し大量の立方体を積み上げたり倒したり飛び石のようにして渡ったり、と『見せ方』はまさにエンターテイメント。
観る前はもっとこう・・・高尚?で難解?な舞台なのではないかと戦々恐々とする気持ちがあったりしたんですが、純粋に『見て愉しい』作品でした。体感時間めっちゃ短かったし。

ていうかね、たぶんあちこちに舞台写真があると思うのでちょっと探して見ていただきたいのですが、


彼の名は、『Genius lul-lul(GL)』
今は2730年、彼は710年間沈黙を貫いてきた。
つまり2020年から。
GLは過去と未来を行き来しながら、自分は何度も生まれ直し、自分の記憶を手繰り寄せてるという。


というこの設定で「白シャツに黒のカーゴパンツに黒ブーツ」という格好、しかも「白シャツを腕まくり」なんですよ。
もう一度言うね。


白 シ ャ ツ を 腕 ま く り


この設定なら“それっぽい”格好はいくらでもあるだろうにこの格好は絶対「わざと」。えげつない・・・・・・って10回ぐらい思ったもんw。


コロナによって活動の場を奪われてしまった舞台人があのとき「黙ってしまったこと」、それをそのままにしておいては「収まらない」と白井さんは思ったそうで、世界規模のパンデミックが起きたことでいろんなことが剥き出しになり、“御札”だと思っていた“ショウ・マスト・ゴー・オン”が“ショウ・マスト・ゴー・オンでなくていい”となった現実に落胆し混乱し、そのことを今改めて考え、価値観が変わった今の演劇がどうあるべきなのか、それを突き詰めて作られたものがこの「2020」なんだ、ということはわたしなりに理解したし、観客としてわたしもあの時黙って受け入れるしかなかったことを改めて思い出したりしたわけなんですが、でも観客という立場として、観劇というものが生活の真ん中にあるような生き方はもうできないかな・・・と思うんですよね。
以前はちょっとでも興味があればスケジュールと財布の許すかぎり観るのが当たり前だったけど、今は「すごく観たい」と思うものでなければ劇場に足を運ぶ気にはなれず、それはもちろん状況によるところが大きいけれど、観劇という行動に対して冷静になったこともあるんですよね。
いつ中止になる(それも劇場に行ったら中止を言い渡される)かわからない状況下でチケットを取ろうとするときに「それほど観たいか?」と自分に問う自分が生まれてしまった。
この先リスクに怯えず劇場に足を運べるようになっても以前にように脊髄反射的に「はい観る!」と思えるようになることはもうないのではないかと思うわたしがいるわけなんですが、高橋一生の一人舞台を観た今は「一生くんの次の舞台は全力でいく。週3、いや週5で観るね!!」と心に誓うのでありました。あれれ?冷静はどこいった?w。