『レディエント・バーミン』@シアタートラム

これ、感想書くのがほんとうに難しい。観てからもう何日も経っているのに、わたしは未だこの舞台の感想を書き始めるための言葉を見つけられないでいる。
ので思いつくまま書く。何かを書き残しておきたいから。


昨年、同じくフィリップ・リドリー×白井晃×高橋一生×シアタートラムで上演された「マーキュリー・ファー」と同様に、客席通路を高橋一生吉高由里子が通って舞台に立ち幕が上がります。白い壁と床に一人掛けのソファと2人用のダイニングテーブルが置いてあるだけのシンプルなセットに立った一生くんはオリー、吉高ちゃんはジルと名乗り、ジルは腕に子供を抱いています。ごく普通の赤ちゃんを抱いた若夫婦に見える(そうとしか見えない)二人は「私たちがやったことは悪いことです」「でも理解してもらえると思います」「だって全部赤ちゃんのためにやったことなんですから!」と言いつつ客席に向けて「物語」を語り始めます。二人が夢の家を手に入れる物語を。


この導入が上手い。この時点ではこの演出の意味はまだわからないのだけど、シアタートラムという狭い劇場を一気に、隅々まで二人が語る物語の『中』に引き入れる。
これが肝なんですよね。二人が夢の家を手に入れた物語を語り終わると、観客は自分が何を聞いていたのか、何を聞かされていたのかに気付く。舞台が始まったその瞬間から二人の『共犯者』にさせられてしまっていたことに気付き、ゾワっとなる。二人のやりとりに、二人がマシンガンのように演じ分ける隣人たちを笑いながら見て聞いてしていた観客はジルの「みなさんだって同じ立場に立ったら同じことをしますよね?」という言葉について考えてしまうし、緑子さん演じるミス・ディーが「皆様もぜひこのチャンスを掴んでください」とばら撒く“不動産贈与契約書”を思わず手にとってしまう。

もちろん「同じ立場」になったとしても「同じこと」をするわけがない。赤ちゃんのためだろうがなんだろうが「理解」することはできない。
でも、殺人という行為でなかったら?
欲望と代償の天秤が自分なりに釣りあいの取れることだったらどうする?
そこにどんな違いがある?
そう問われているようで、
便利で豊かな生活はもしかしたら誰かの犠牲のうえに成り立っているのかもしれないよ?
そう言われているようで、
一瞬躊躇してしまう。してしまった。
全然話のスケールというか、そもそもの次元が違うというのは分かってるけど、例えば舞台を観るとして、以前は1度観れば充分というか、1度しか観ないのが当たり前だったのに2回.3回と観るようになり、今じゃ同一演目10回だって余裕になってしまっているわけで、だから「際限のない欲望」というがどんなものなのか身を持って理解できてしまうわたしは、オリーとジルの「欲望」を完全に否定することはできない、気がしてしまった。


それから、これはもうそういう巡り合わせというしかないんだけど、この作品のタイトル「レディエント・バーミン」というのは直訳すると「光る・ゴミ」という意味だそうで、それはズバリ夫婦がタダで貰った家を夢の家へとリフォームするための『材料』、それを夫婦は『リフォーマー』と呼ぶんだけど、社会にとってなんの貢献もしていない、生きていてもなんの価値もないゴミのような人間(浮浪者)のことなんですよね。オリーが浮浪者を殺す。すると六十数秒の後浮浪者は光を放ち消滅するんだけど、死体が光を放って消えたその場所は夫婦が思い描いた理想の部屋へと変貌を遂げる、というトンチキな仕組みでして(冷蔵庫なんて食材を取りだす→冷蔵庫の扉を閉める→開けるとさっき取り出した食材が補充されてる という超設定)、そのトンチキさはそれとして、最初の殺人こそ怯え苦しむ素振りを見せていた夫婦はあっという間に夢の家を作るための材料として人の命を使う(殺して奪う)ことに慣れてしまう。それはその命が二人にとって「価値のないもの」であるから、なんですよね。

で、この作品を観る直前に現実に「生きていても価値がないから」という理由で犯罪史上に残る大量殺人が起きた。たった一人の狂人がしたことだけど、現実にそういう考え方をする人間がいるということを知ってしまった。本質は全然違うとしても、そこに何かを感じてしまう。何かを探してしまう。どうしても心にあるこの感情を表現する言葉が見つけられないのだけど、「面白かった」だけじゃ済まない感情が残ってる。


とはいえ面白かった。この空間にいられるだけで幸せだった。
郊外の、他に誰も住んでいないような寂れた地区にある電気もガスも通ってない古い一軒家を「理想(夢)の家」にリフォームすべく夫婦が調達した「リフォーマー」は500人以上って言ったように記憶してるんだけど、つまり500人もの大量殺人を犯してるってのに、血なまぐさい感じは全くない。白い舞台の上でどうやったら綺麗に人を殺せるかなー?→そうだ!昔マジックをやるときに使った小道具を改良して先っぽに協力な電流が流れるようにすればいいかも!魔法のステッキみたいでいいね!ウフフアハハ〜とか言い合っててとにかく陽気。ていうか可愛い。

ていうか一生くんがですね、ふわっとしたオサレマッシュルームみたいなヘアスタイルに銀縁のダサ眼鏡に青で統一したゆったりめのシャツとパンツというビジュアルでですね、これがもうクッッッッッッッッッッッッソ可愛いの!!。
もうこのビジュアルだけでなんでも許せますわ!許せちゃいますわ!って感じなのに、吉高ちゃんに振り回されっぱなしなんですよ。決定権は一応旦那にあるみたいだけど、無邪気で奔放な妻が旦那を操縦してるってな感じなので、結局「しょうがないなーもう」って妻の言うこと聞いちゃうのね。その甘さと弱さがこのビジュアルと相まってすこぶる可愛い。やってることは殺人だけど。

そんな一生くんオリーは(吉高ちゃんのジルも)客席にばんばん絡むんですよ。一生くんカッコいいわーっ呆けてたらいきなり相槌求められておしっこちびりそうになったw。
あとね、やっぱこれだけ近いとどうしてもクンカクンカしてしまうわけですが(するよな?するだろ!?)、一生くん・・・・・・いい匂いだったわぁ。この劇場でいい匂いと言えばイケテツさんなんだけど(白井さん演出で一生くんも出演していた「four」という作品でイケテツさんがめちゃめちゃいい匂いさせてたの)、イケテツのいい匂いが完璧なる大人の男、言い方を変えると金の匂いがするw香りだったのに対して一生くんは癖のない爽やかな匂いがほんわり香ってくるもんで、鼻の穴広がらないように(でも匂いを嗅ごうと)必死だったよねw。ウン十年生きてきた中で一番鼻の穴に気合い入れたわw。

そしてこの舞台最大の見所は1歳になる二人の息子のバースデーパーティで、近所に越してきた4組の夫婦とその子供たちが招待されるんだけど、本役のオリーとジルを含め計5組の夫婦(家族)を全て一生くんと吉高ちゃん二人で演じ分けるというものなんだけど、これがもう・・・スゲーのなんのって。特に一生くんの『分かりやすさ』は素晴らしい。吉高ちゃんは正直そんなに演じ分けられてなかったんだけど、一生くんがそれをカバーすべくしっかりキャラ分けしてるんで、それによって吉高ちゃんの演じ分けが成立してた。

中でも名前忘れちゃったけど最初に隣人になった夫婦が特によかった。オリーとジルが家を素敵にリフォームすることで周りの家が売れ、その家もまたリフォームし、そうやってその地区が活性化し価値があがり、やがてそこに住んでいることがステイタスになるってのが二人に「夢の家」をプレゼントしてくれたミス・ディーの売り文句なんだけど、だから最初の隣人はまだ生活レベル的には高くない、それこそオリーとジルとさして変わらない若夫婦なんだけど、あんまり・・・・・・頭良さそうじゃないんですよねw。舞台のイギリスを日本に置き換えたとするならばお揃いのジャージ着てドンキ行ってそうな夫婦なのw。これまで舞台のみならずドラマや映画でいろんな役を演じる一生くんを見てきましたが、こういう頭緩そうな若者役って見たことがないんで新鮮で、吉高ちゃんの嫁と合わせてこの夫婦のスピンオフを見たいとか思ってしまったw。

ていうかこの夫婦、ティーンエイジャーの子供に煽られオリーが自我を失ったことで散々な終わり方をしたパーティのあとで、隣人一同を代表してオリーとジルにクレームの手紙を書いて寄越すとか酷いよなぁ。確かにオリーとジルは浮浪者を家に招いてるわけで、そこは文句言われても仕方のないところではあるんだけど、元から社会的ステイタスの高い隣人はともかくお前らはオリーとジルの味方になってやれよと。でもあとから越してきた隣人たちとは違い歳も近いし元々の生活レベルも同じようなもの(っぽい)のにリフォームを重ねまくり豪華な家具やら車やら電化製品やらをガンガン買ってる(と思ってる)オリーとジルに嫉妬みたいなものがあって、ここぞとばかりにクレーム手紙をノリノリで書いた・・・んだとしたら、それはちょっとわかる気がするなぁ。ってことも含めてスピンオフが見たい。


この手紙もそうだし、オリーとジルには何度か引きかえす・・・・・・のはもう無理だとしても、それ以上『リフォーム』をしないという選択をするチャンスがある。でもその都度ジルは「赤ちゃんのため」という言葉を理由に、言い訳にして欲望を叶えることを求め続け、オリーもまたそれを止めようとはしない。そこへ再び現れたミス・ディーは、別の家をあげるからもう一度最初からやり直せばいいと言う。今度は最初から『リフォーム』ありきで、二人は喜び勇んで再び契約書にサインする。屈託のない朗らかな笑顔でミス・ディーに感謝する二人はやっぱり可愛くて、可愛いだけに怖かった。


初めての舞台ではそんなにいいと思わなかった吉高ちゃんがこの舞台では大層魅力的で、ちょっと、いやかなり驚きました。画面の中でみる「吉高由里子」がそのまんま舞台に立ってるといった感じで、吉高ちゃんの持つ自由で奔放でちょっと我儘で、陽気なんだけどでもちょっとどこかズレてる感じ、それがまんまジルという女性の魅力になってて、その魅力でもってこの作品を引っ張ってた。

一生くんはそんな吉高ちゃんを自由に泳がせていて、吉高ちゃんの感性というか瞬発力の芝居に対して一生くんは何パターンもの“返し”を用意してて、それを瞬時に選択してるような印象を受けました。これまで一度もそんなことを思ったことはないんだけど、今回の一生くんの芝居を観て「職人」だなーと、そんなことを思った。

そしてそして、若い夫婦に耳障りのいい言葉を囁く悪魔のような存在と(これ、「役所」という権力というか信用?を背負ってのことなんだけど、連絡先を教えてくれなかったり明らかに“怪しい”のに「役所」という信用のまえではその怪しさに蓋をしてしまえる庶民の心理を描いてるのかなぁ?)、リフォーマーとして夫婦の家に招き入れられ、それまで殺人にはノータッチだったジルが期せずして言葉を交わすことになってしまった女浮浪者というキーパーソン二役を演じた緑子さんはさすがの存在感と安定感であった。

それまで『リフォーマー』という材料としての存在だったものが会話をし『ケイ』という名前を知ったことでジルの中で『人間』になったんだと思う。だからジルは迷う。ケイを殺すことを躊躇う。だけど結局は欲望に負ける。その直後産気づき息子を出産するんだけど、セットの上部からひょっこり顔を出したケイが赤ちゃんをジル目掛けて落とす、という演出なのね。それまでケイはオリーとジルに殺されることで子供部屋に“生まれ変われる”ことを喜ぶ哀れで孤独なリフォーマーだったのに、リフォーマーでしかなかったのに、赤ちゃんを投げ落とし観客に向けてひらひらと手を振りながら浮かべた悪戯な笑みは、ミス・ディーのソレと重なるんだよね。劇中ではそれ以上のことは描かれないんだけど、ミス・ディーは、もしかしたらミス・ディー「たち」は、選ばれし善良な人間が自ら『扉』を開くこの瞬間が見たくて毎回こんなことをやってんのかなーとか想像してしまう。


これだけ書いたのに、感じたことを書けた気がぜんぜんしない、そんな舞台でした。フィリップ・リドリーこええよ。