『あのときキスしておけば』第3.4話

あれ?わたし3話の感想書いてなかった・・・?
モモチの“人間性”を担保に(ということだと解釈しました)ママが「おじさんが巴ちゃん」だと信じてくれて、ママと抱き合えた蟹釜先生に心から「良かったねー!」と思った直後にフラの先生であるMEGUMIがおじさんの中の人(という言い方はおかしいが)の「妻」であり、モモチ(男)との不倫(駆け落ち)を疑ってるとか怒涛の展開すぎて感想書くどころじゃなかったんかな?。
蟹釜先生の魂が入ってしまった「田中マサオ」が妻によって自宅に連れ戻され、息子がコンビニで出会ったあの少年で、田中マサオの現状が判明し、あの日沖縄行きの飛行機に乗った理由が推察されるというさらなる展開のなかで、最も驚いたのは「蟹釜ジョーのデビューが3年前」であることですよ。
雑誌の看板作品だというし、それこそワンピースぐらいの長期連載作品のつもりでいたけど、スーパーの同僚が「子供がファンで読んでみたら嵌った」人もいれば仕事の合間にアンチ活動してる人もいるという描写になってることだし、それだけ短期間で稼いでる(からあんな豪邸に住める)ってことからしてもむしろ鬼滅とか呪術をイメージするのが正解だったか。

でも30過ぎて漫画家デビューできたのならばそれまではなにやってたんだ?ってことになるわけで、そうめんの茹で方すら知らないってのはどうなん?という気はする。セイカを連載できるようになるまでは実家暮らしでママが全てやってくれてたし、デビューしてからは高見沢が生活全般の面倒を見てくれてたってことなのだとしたら、今の「蟹釜先生」の人物像もここ2年ぐらいで培われたモノということになろうわけで、だとしたらなんか・・・モモチに対する出会った直後の傲慢な物言いが成金ならぬ成売れっ子漫画家っぽくてちょっと幻滅・・・かな。
おばあちゃんの荷物を持ってあげたり子供にやさしく声をかけたり、「唯月巴」という人間はそういうことが自然にできるひとだってことはわかるんだけど、一方で「蟹釜ジョー」という漫画家はスーパーでハイキックするようなエキセントリックなところがあって、両者が混在してるのがモモチが好きになった「蟹釜先生」という人なんだってことも理解してるつもりなんだけど、それがたかだか2.3年程度のことだと思うとちょっとね。

二十歳そこそこでデビューして、高見沢と二人三脚でセイカを看板作品にし、作品が安定し余裕ができたことで相手を「異性」と意識し結婚したものの上手くいかずに漫画家と編集者に戻りましたってほうが自然に思えるけど、なんでわざわざ「30過ぎで漫画家になった」なんて設定にしたのかなぁ?。

それはさておき、橋の上での修羅場から、おじさんの中の蟹釜先生が妻と暮らす「あっちの家」に行ってしまって情緒不安定になるモモチは可愛かったけど(蟹釜先生と連絡先を交換した夜なんかもそうだったけど、モモチは「心の声」がとにかく最高にオタクで最高ですよねw)、外見おじさんと「デート」することは他人の目とかそんなに気にしてる感じじゃないのにいざキスとなると途端に「おじさん」であることを意識しちゃうところがキモくてよいですw。


田中マサオの身元が判明したことで、「田中マサオの魂はどこへ行ったんだろうね?」という話をしてたけど、入れ替わっているわけではない(唯月巴の肉体は骨になってしまっている)以上、存在として“余計(余分)”なのは唯月巴の魂ってことになるよねえ?。
で、田中マサオは「死のうとしていたのではないか」ってなことなわけで、絶望のさなかで飛行機事故に遭った、ということになるのではないか。
であれば、田中マサオの魂は、田中マサオの肉体の中で絶望したまんま存在してるってことはないかな?。田中マサオの魂が小さくなってしまってるところを唯月巴の大きいというより強すぎる魂が乗っ取ってしまった、ということならば納得できる気がする。
とすれば、着地点は田中マサオの身体を田中マサオの魂に返す、それはつまり唯月巴が成仏する、というところになるのかなーとか思うのだけど、でも現状として、田中マサオが元に戻って嬉しいのってエグゼクティブ真二ぐらいだよね・・・妻子でさえ、中身巴の夫であり父親を「悪くない」と思い始めてるもんね・・・。