『おんな城主 直虎』第20回「第三の女」

いやあさあ、面白いか面白くないかっつったらすごい面白かったんだけどさあ、生前はときめき描写だったはずのあれやこれやが死後「スケコマシ」扱いになるとは。
あれだけドラマティックに死んでおきながら死んだあとでここまでよくもわるくも酷い扱われ方をするってそうそう見れるもんじゃないわよね。死人に口なしとはまさにこのことかと。
この時代であることを考えれば別に大したことじゃないというかよくあることというかそんな感じではあるのでしょうが、だから「あの亀がそんなことをするはずがない」とは言わずともそれでも「あの亀が果たして(おとわの存在がありながら)そのようなことをするだろうか?」とかさ、そういう話が出る気配皆無で笑ったわ。高瀬が本当に直親の子供なのかと疑いはしたけど誰一人として亀の下半身無実の可能性を考えないんだもん。
おまけに回想(放送された映像)ではなくわざわざ新撮してまでこんなシーン追加してくるとかさあ、これはもはや三浦春馬の職人芸ですね!とでも言えばいいのだろうか。
だってこれだけ爽やかスケコマシを演じられる人なんてほかにいないだろ。こうまで全視聴者を納得させる爽やかスケコマシができるのは三浦春馬をおいて他にいない。だからこそ森下さんは容赦なく遠慮なく春馬が演じる役を(愛を込めて)クズとして描くのだろう。
まだ若手俳優と呼ばれる年代にありながら「この人しかいない」という役どころがあるということはすごいことだよね。うん。すごいよ春馬!すごいぞ春馬!。
というわけで、どこぞのおなごとよろしくやってたのは自分と出会う前だけど、あんたは出家までしたのに裏切られて可哀想というしのの思考回路は嫌いじゃないですw。大河ドラマで「すけこまされる」なんて台詞はちょっとどうかと思うけど、こういう女嫌いじゃないw。
で、誰も亀の下半身を信じてやらないと書いたけど、政次だけは心のどこかで信じるというより願うところがあったんじゃないかなと思うのよね。でもそれは自分のためではなくおとわのため。政次だってしのと同じく亀とおとわの間にある絆に苦しんでいるわけだけど、しのの怒りは自分のためであり政次の願いはおとわのためのものだという大きな違いがある。高瀬が間者であるかもしれないと言う政次の発言の裏にあるおとわへの気遣い、そして高瀬が歌う“亀が吹いていたあの曲”が聞こえた瞬間に見せた動揺。切ない政次今回も絶好調。