『動物戦隊 ジュウオウジャー』最終話「地球は我が家さ」

大和がなぜジュウオウジャーになれたのか、それはバドからジューマンパワーを貰ったからで、なぜバドが大和にジューマンパワーをくれたかと言えばそれは『人間に攻撃され瀕死のところを大和の父親に助けてもらったから』なわけだよね?。ラリーさんだって最初は人間に興味を持って「アミーゴ!」ノリで接しようとしたのにゴリラ人間だっつって酷い目にあったというじゃないか。大和やみっちゃん、真理夫おじさんや大和父はこう言っちゃなんだけど「特別」なんだと思うよ?。ジュウオウジャーやってるなかで何人かの一般人と交流を持ち「人間にだってイイ奴もいる」とか思ったかもしれないけどさ、いざ相手が「ジューマン」だってなことになって同じ空間で一緒に生きていくんですってことになったらそう簡単にはいかないよ、絶対。人間界とジューランドの位置関係的なことって実はよくわかってなかったんだけど、二つの世界が一つになった様子からして並行世界みたいなものだったわけでしょう?。真理夫さんのコテージに突如現れたジューマンたちはおそらくジューランドの“同位置”にいたんだろうし、つまり同じ場所に二つの生活空間が在ることになってしまうわけだよね?。揉めないはずがないじゃん。
繰り返すけどこれまでジューマンが人間に迫害される様を描いてきたし、逆にバドと交流を持ったジューランドに迷い込んだ人間は“制裁”という言葉は強すぎるかもだけど、おそらくその代償は「命」だったのだろう。それぐらい「人間」と「ジューマン」の間には・・・隔たりがあるんじゃないかと思うんだよね。アザルドとケタスさんが戦ってたころはどうだったのかわかんないけど、今現在の「人間」と「ジューマン」は決して友好な関係にないことは間違いないと思う。だからこそラリーさんとみっちゃんが講演活動でもって共存できることを訴えてるんだろうけど、ことはそう簡単じゃないだろう。メーバの集合体だったジニス様との「ゲーム」が終わったら今度は人間とジューマンによる争いが勃発するとしかわたしには思えないです・・・。
まぁある程度の争いは生物の本能と考えればいいのかもしれませんが・・・・・・。
やっぱりさ、ジニス様のゲームがジューランドにどんな影響を与えていたのかを描かなかったのは失敗だったと思う。というか、ジニス様との繋がりを地球(に存在する全ての生命)自らが拒絶した(故にジニス様はジュウオウジャーに敗北した)ってのは『ジニス』というキャラクターの孤高の王様感を失うことのない、なかなかうまい落としどころだなーとは思ったんだけど、そこにジューランドの「意志」も織り込んで欲しかったよ。その上で強引でもなんでも世界が融合しちゃったわけで、対ジニスとして意志統一できたことだし、共存できるよう歩みよろうね!ってなことならこのオチも素直に受け入れられたんじゃないかな。
いやわたしの希望としては大和とみっちゃんとジューマンたちはちゃんと別れて欲しかったんだけどね。
ちゃんと別れて、でもなんだかんだで毎日真理夫さんちに遊びにきちゃうジューマン達ってんでよかったと思うけどね。
つーか泣いてる豚の子ジューマンの描写なんだよこれ。大和がレオたちのところへ向かう途中で泣いてる子豚見つけて一緒にピクニックしようよって誘うのはいいよ。レオたちのピクニック会場子豚が泣いてる目と鼻の先じゃねーか。余裕で目視できる距離で子豚が泣いてるってのに全く気付かず「おせーよ大和」ってそりゃねーだろ。なんでこんな描写にしたのよ。


まぁでも素顔名乗りはたいへんよかったです。
まさか戦隊のEDで踊る村上幸平を見る日が来るとは思ってもみませんでした。
ああそうか。最終回のEDダンス(フルサイズ)、これが人間界とジューランドが融合した世界ということか。
ということで納得します。


開始当初の期待はかなりのもんだっただけに最後の最後にきてのこの失速(わたし的にね)は残念というほかないんだけど、大抵一人ぐらいはそんなに好きではないキャラがいるもんだけどジュウオウジャーは全員好きで、そういう面ではストレスなく毎回楽しく見続けられました。大和はともかくみっちゃんは「みっちゃん」というキャラクターの濃さゆえに、ジューマンたちは「ジューマン」という役の特殊性ゆえに、この先演じる役に対して物足りなさみたいなものを感じてしまうかもしれないけど(レオとかこの頭じゃなかったらわからないかもしれない・・・)、そういうものを吹き飛ばすぐらいこれからの活躍に期待します!。