『中河内雅貴ワンマンショー 〜ある男に関するレシピ集〜』@CBGKシブゲキ!!

くっそカッコいいなこの男!!。
公演中何十回、いや、百何十回思いました。
そう思えてよかった。そう思えて幸せです。
この人はいつも自分の前にあるものを“高い壁”と認識し、歯を食いしばり眉間に深い皺刻み頬をこけさせながらそれをギリギリで乗り越えてきた。何度か跳ね返されたりもしたけれど、毎回それに必死で挑み必死で乗り越えようとしている様を見せられてきた。
それはそれですごいことだというか、それはそれで見ごたえはあるというか、それでこそガウチだってか、ガウチとはそういう人であるってことは理解してるつもりだったんだけど、でもこのたった独りの、自分(とファン)のために用意し作り上げる舞台の上でもんのすっごーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーく楽しそうに幸せそうに踊るガウチを見て、わたしはこういうガウチが好きなんだってことを改めて思い知らされました。(役の上では笑顔であっても気持ちとしては)険しい形相で何かと戦っているがごとく存在しているガウチもカッコいいけれど、そういうガウチはやっぱり見ていて辛いというか、痛々しい気持ちになる瞬間があることも事実なんだよね。
というか、これまではここまではっきりとそう思った自分に気づいてなくて、でもこんなにも柔らかな雰囲気で伸び伸びと、そして生き生きと踊るガウチはもしかしたら初めて見るかもって思った瞬間、自分がそう思っていたことに思い至ったってのが正確な表現かな。
池田鉄洋石田明近藤良平堤幸彦、奥秀太郎、TETSUという多岐に亘るジャンルのクリエイターたちによって料理され提供されたいろんな中河内雅貴が、最終的に「ひと月前の稽古中の俺」から「ひと月後の舞台上に立ってる俺」へ宛てた手紙の中に集約され、そして『俺たちは誰かのために頑張ることが好きだ。そしてその誰かってのは、今そこにいる人たちだ』と読み上げる。
そして真っ白い衣装でバッヘルベルのカノンを時に指先を震わせながら時に何度もつっかえながら真剣に懸命に弾き、技術こそ拙いけど技術を超えた音で、その音はガウチの想いとなって客席を満たし、最後に『表現者』としての今できる限りの自分を全て見せ付けるようにしなやかで力強いダンスを踊るの。
このクライマックスがいつもいつも最高にいい顔してるんだけど、これまでガウチに相当な金と時間をぶっこんできたファンの立場から言わせてもらえるならば、これだけいい顔で踊ってるのは『誰か=自分だけを見てくれる人たち』のためだからだと思う。
ガウチが立っている場所、生きている世界は、このワンマンショーという舞台の主人公である名も無い郵便局員の台詞を借りるならば『もしかしたらこの仕事をするのは自分でなくてもいいのかもしれない』んだと思う。というか、言い方を変えれば客席に座ってる一人ひとりの「客」にとって、「中河内雅貴でなくてはならない」という存在である(ありつづける)ことは難しい・・・のだと思う。
そして『この仕事に終わりはない』。
そう自覚した上で、中河内雅貴という男はこう言うのです。
『それでも僕は届ける』
と。
そういう想いが込められた(とわたしは受け止めた)ガウチのピアノを聴きダンスを見ながら
なんて孤高なんだろうこの人は
なんて眩しいんだろうこの人は
と思った。
ああ、わたしがずっと追い続けてた中河内雅貴という人はこんなにも綺麗でカッコいい男だったんだなーって、ひどく冷静に思うわたしがいました。
誰かのファンとしてあれやこれやすることは100%自己満足でしかなくて、誰のためでもない、自分のためだけの行為でしかない。そこでどういう喜びを得るか、どういう満足を得るかってのは自分次第なんだよね。だからこそひたすら貪欲に『ファンとしての時間』を貪りつくすわけで、だけどその時間ってのは永遠に続くわけじゃない。そりゃ中には死ぬまで誰かのファンでい続けるという幸せな人もいるでしょうが、わたしは多分そういうことはないだろう(現時点でそこまで入れ込める人はいないし)(あ、でもピロキはどうだろう・・・・・・?^^)。
で、わたしは結構誰かのファンであることをやめた過去があったりするんだけど、ほとんどの場合残るのって虚しさだったり自己嫌悪だったりするわけですよ。情けないことに。
で、いつかガウチのファンをやめる時がくるかもしれない。ていうかくるだろう。こなきゃマズイ(笑)。
でもその時にはきっとこのワンマンショーのことを思い出すだろうし、そしたら絶対このカッコいい男を全力で好きだった時間を否定することにはならないと思う。
そう思えたことが本当に幸せ。


・・・・・・・・・・・・って、なんかもうガウチのオタ卒記念作文みたいになってっけど、そんなことないから!俺まだまだガウチ追っかけるから!!(笑)。
なんかガウチがあまりにも、もう予想外の素敵さだったもんで、俺ちょっとおセンチさんになっちゃったみたいです(笑)。


他に比べる人がいない舞台上のガウチは思ってたよりもガッシリとして背が高い人に見えたなぁ。
何十回、いやもしかしたらそれ以上ガウチのことを見てきたはずなのに、こんなにも『たくましい男』って認識はなかったかも。外見・中身ともに。しなやかなんだけどたくましい。
ガウチのはだしの足も想像してたよりも大きかった。ゴツゴツ骨ばってたのは想像通りだったけど。
あと意外におしりがプリっとしてんのね!。コロネのときステージ真ん中で客席におしりつきだしてペロンとするんだけど、最前ドセン、つまり真正面・・・というより斜め下から見上げる感じでみたらプリップリでございました。
あとあと、お肌綺麗なの・・・・・・。妹と友人三人が付き合ってくれたんだけど、4人とも「肌が綺麗」と驚いてました。荒れてる印象はないけど綺麗な印象もなかったんでw、ちょっとビックリしたなー。
さんざんっぱらガウチのこと見てきたつもりでいたけど、まだまだ知らないガウチがいっぱいいるんだろうな。


初回の感想でわたしはこの舞台(企画)はこのレシピに応えられる『素材』さえあればガウチでなくとも成立すると思う、といった趣旨のことを書きました。その思いは25公演終えた今でも変わりはないです(ドリ厨の妹は「タッくんで見たい」と言っていたw)。
だけど現実問題、ガウチのほかに誰がこれだけのレシピに応えられる?って話なのよ。誰がこの鉄板レシピをここまで“自分で料理”できる??って話なの。
事前の段階では苦行と言い切ることに疑いを持ってなかったこのわたしが毎回震えるほどに感動し、劇場に足を運ぶことが楽しくて仕方なく(時には辛い日もあったけど^^)(だって暑いんだもん・・・^^)、そして席を1つでも埋めてあげたいというオタクのエゴってか自己満足?よりも(それももちろんありはしたけど)できることなら1人でも多くのひとにこのショーを見てもらいたい!!という純粋な気持ちから友人に声をかけた理由ってのは、『素材』をこえたものがこの舞台上にはあったから、なんだよね。
そしてそれは決してレシピ提案者たちによってでない。だって舞台が始まってしまったらクリエイターたちは手を出せない(出すつもりもない)舞台だから。
初日から暫くはこれ完全にオタしか楽しめないよなぁ・・・って思ってたんだけど、ある時ふと冷静になって考えてみたら別にそうでもないかなって、もしかしたらこれ舞台とかダンスとか見る下地がある人ならば普通に楽しめるんじゃないかな?って思ったのね。で、おそるおそる誘ってみたらこれが結構な高評価で!!。
初日は確かに「素材ありき」の舞台だったと思うの。ガウチを見るためだけの舞台だったと思う。だけど25公演という時間の中で、ガウチは素材としてだけでなく、素材の魅力は保ちながらもそこに自分なりの味付けをしていくことで最終的に『料理』を作り上げたんじゃないかなーと。ガウチのことを全然知らない友人が「面白かったー!」って何度も言ってくれたのってその料理が美味しかったからだと思うの。それはガウチの腕、ガウチの力だとわたしは思う。
これだけのものを作り上げられる人はそうそういない。
そもそもワンマンショーという形態をこんなに馬鹿げた公演数でやろうとする人とかいないよね(笑)。
ほんっと、無茶な男だなと思うわー(笑)。
だからガウチはカッコいい。そう思えてよかった。



というわけで。クラブセブンばっちこーい!!(笑)。