『どうする家康』第14話「金ヶ崎でどうする!」

14回も見てれば徳川家臣団それぞれが「どんな感じ」のキャラクターであるのかなんとなくわかってきてはいるけども、でもそれはそれぞれの性格であり「家臣たち」という集団のなかでどんなポジションであるのかといったことが「なんとなく」わかってきただけであって、それぞれ親兄弟がいるのかとか、どんな生い立ちなのかとか、そういったことは全くわからない。個別に掘り下げられることはないのでぼんやりとしたキャラクター像としての区別ができるだけ。
それなのに「阿月」なる侍女のことはここまでしっかり描くんだよね。

なにをもってまっとうとするかってのは人それぞれ基準とか感じ方が違うと思うけど、この作品は『徳川家康を主人公とする大河ドラマ』としてまっとうとは言えないと思うの。
で、まっとうな大河ドラマであったならば市が送った「小豆」の話を「擬人化」という切り口でもってこの時代の『女性』を現代の価値観を投影しつつ描く、という変化球回があってもいいだろう。
いいだろうどころか「勝者に与えられる干し柿」が欲しくて自分の脚で勝者となったのに「女だから」と干し柿を奪われ、三百文で父親によって売り飛ばされた娘がお市様に拾われ、阿月という人間として扱い認めてくれたお市様のために文字通り命を賭けて徳川様への使者として走る・・・というエピソードに感動すらしたかもしれない。

でもこの大河毎回こんな感じなんだよね。毎回変化球なのよ。
だから「なんでポッと出の侍女が走るのを見せられてんの?」としか思えない。わたしが見たいのは市と侍女の絆ではなく長政と市の夫婦のやりとりなんですけど。
挙句たまたま家康が阿月と面識あったから「お市様の侍女だ」とわかったものの『お市様の使者』だと判るものをなにももたずにただ口頭で「お引き候え」とだけ伝えて息絶えましたって、え?これどうすんの・・・?と真顔で混乱したし、ていうか使者としてどうなんよ?と。
その前に数正主導で「浅井が裏切ったかもしれない(から一旦退却して陣を張る場所を変えたほうがいい)」という結論に達した家康がそれを信長に訴えて喧嘩になるという状況下でのものだったから「市の言葉」として信長も聞き入れることができたってことは解るんだけど、これじゃあ信長と家康の言い合いと、「殿は秀吉」の命が「走りきって役目を果たして死んだ阿月」を成立させるためのものみたいになっちゃっててさすがに今回はノーと言わざるを得ない。


ていうかあれもあれで十兵衛ちゃんをカッコよく描きすぎではあったけど、麒麟が来るの金ヶ崎とあまりにも違い過ぎる熱量の落差に眩暈がしそう。