新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』@新橋演舞場

菊之助さんが上演を熱望されていたという歌舞伎版「風の谷のナウシカ」の幕がついに開き、観劇できる日を心待ちにしてるところへ聞かされた菊之助さんの怪我により昼の部は中断のまま終了、夜の部は休演のニュース。瞬時に猿之助さんのことが思い出され血の気が引きましたが、演出を一部変えたもののなんとか千穐楽の幕が下りてほんとうによかったです。
わたしが昼の部を観たのはお怪我をされた回から1週間ほど経過した16日で、そのときは左腕をあまり動かさないようにしているようには見受けられるものの、事情を知らなければ気にはならないのではないか?というぐらいの感じでしたが(普段の菊之助さんを見知っていれば動きがぎこちないことは明白ですが)、千穐楽では公演中盤あたりまではカットされていたという所作事もしっかり見せてくださり、それほど重傷ではなかったのか回復が早かったのか、いずれにしてもそこまでの大事にならなくてよかったとか思っていたら、カーテンコールでの菊之助さんのお顔に充実感などはなく(感じ取れず)まさに精魂尽き果てた・・・という感じに見えましたし、お顔も窶れているようで、心身共にきっとものすごく無理をし続けていたのだろうな・・・と、なんとかやりきることができてほんとうにほんとうによかったと、昼夜通して7時間という舞台の最後に「どんなに苦しくとも、生きねば!」と力強く言う菊之助さんのナウシカを、とにかく最後までやり遂げられてよかったという思いで胸がいっぱいになりました。

それは原作の結末というか、戦いの末に残ったもの、残されたものの意味、「生きねば」という言葉に込められた想いとは違うし、菊之助さんがナウシカを歌舞伎化することで表現したいものとも違っているのだとは思います。怪我などなく、万全の状態でやりきることができていたのだとしたら菊之助さんの表情は晴れやかだったかもしれないし、であればわたしもこの「どんなに苦しくとも生きねば」という台詞を菊之助さんの言葉として聞いてしまうようなことにはならなかったかもしれません。だけどアクシデントは起こってしまったし、ゆえに昼の部の宙乗りや夜の部の所作事といった「見せ場」をカットすることになってしまっても、それでも舞台に立ち続ける菊之助さんに特別の想いが乗っかってしまった。わたしが乗せてしまった。それはもう仕方がないというか、そういう生き物なんですよ、オタクって。


オタクとは言ったものの、わたしは風の谷のナウシカという作品について映画は遠い昔に見た記憶があるものの思い入れはほぼなく(ジブリで好きな作品はラピュタ魔女の宅急便で、結婚したいのはアシタカです)歌舞伎化されるにあたりアニメージュの7巻セットを購入し2か月かけて各巻を平均3回ほど読みました(それぐらい読み込まないと理解のとっかかりすら掴めなかった)(原作を読んだうえでのナウシカ(歌舞伎)の感想としてなによりもまず最初にくるのは「宮崎駿の闇すげーな・・・・・・」です)。という程度なのでナウシカについてはド素人です。

で、全7巻からなる原作をほんとに最後まで描ききってくれちゃったよね。同じく漫画原作で同じ演出家による「NARUTO」が全巻やるといいつつ途中をほぼほぼすっ飛ばしてたことを考えると、原作ボリュームを差し引いても「全巻通しで上演」に偽りなしでした。
そりゃあかなり簡素化してるというかダイジェスト感は否めませんが(仕方がないとはいえ暗転の多さは気になりました。場面を変えるために暗転が必要であることは理解してますが、暗転の間のもたせ方、場面と場面のつなぎ方がよろしくないなと思うことが多すぎて、暗転の間、この作品こそ豊洲のぐるぐる劇場でやればいいのではないか?その際はもちろんいのうえひでのり演出で!とか考えたり)、それは「ここを歌舞伎の技を駆使してやりたい(やらねばならない)」という強い信念と意志が伝わってくるダイジェストなので、むしろひとつひとつの場面の「強さ」が際立ち、そういう意味では全編見どころ、捨てるところナシ!!と言った感じ(あ、でも蟲使いという存在と、ユパ様がその蟲使いの船に乗って腐海に行くという説明のための場面であることはわかるけど、クイを預けないなら酒場のシーンいらなくないかな?酔客が店の女を買うとかいう要素は舞台の世界観からちょっと浮いていたように思うし)。

その全編見どころのなかで、「特にココ!」というかテンションが最もあがるのは昼の部は王蟲培養室の場での本水での立ち回りからのW飛び六法であり夜の部は墓所の主の場での毛振りでして、前者はユパ様松也さんとアスベル右近くん、後者は墓の主歌昇くんとオーマの精右近くんがそれを務めるってところがアツイ!!。

昨今の(特に漫画原作)新作歌舞伎の方向性からして本水はあるだろうとは思ってましたが、なるほどこう来たか!と、ここで本水行くか!と。ナウシカを歌舞伎化するにあたり、最も有意義だと感じた場面がここでした。戦いの迫力と躍動感という意味でここは原作を超えたと言っても過言ではないかと!。
が。
ユパ様がジャンプでアスベルと土鬼を飛び越えて水でびしょびしょの床に膝で着地するの超びびった。わたし4列のほぼドセンだったんで客席に突っ込んでくるんじゃないかと本気でビビった。
そんでビビったあと松也さんの膝が心配になりすぎてそのあとしばらく話が入ってこなかった・・・だってほら・・・あのひと結構重量級じゃん・・・・・・(中村屋の密着番組でこの場面の舞台稽古の様子が流れたんだけど、ジャージ姿の松也さんの下半身結構なアレで白目りました。ルキーニまでに絞れろ(念))。

本水が原作に沿った演出であるのに対し、毛振りのほうは結構な唐突感ではありました。いやむしろはっきり言おう、トンチキだと(笑)。
“肉塊”には見えないものの幻想的で美しい墓所の美術演出のなかで墓の主とナウシカによる対話を耳から脳に送り込むことにいっぱいいっぱいになりかけたところ(有り体に言うと意識飛びかけた)でなぜか墓の主が白獅子に、オーマがオーマの精として赤獅子姿(でもばりばりオーマ化粧)で登場し、それぞれバックダンサー引き連れての毛振りバトルが始まるとかイカれすぎてて「わたしは一体何を見ているのだろうか?」としばし冷静になりましたw。このトンチキさはあれですわ、ジャニーズ舞台のソレですわw。つまり勝手知ったるトンチキさってことだね!だいすきだぜ!。 

でもこの毛振り対決、墓の主とオーマ(の精)の戦いの演出としては(トンチキでも)アリだと思うのですが、戦いに割って入ったナウシカに「消え失せろ!」と言われすっぽんへ消えていく墓の主とナウシカの腕のなかで「立派な息子だ」と言われ死ぬオーマの精としてしまったことで、墓の主=悪、オーマの精=善、という見え方になってしまったのは如何なものか、とは思いました。
善か悪か、光か闇か、清浄か穢れか、救いか滅びか、そのどちらかしかない世界を拒絶というより抵抗かな?滅びゆくのが人類の定めだとしてもそれに抗いたいと、それでも生きるのだ、というのがナウシカの意志だと思うのですが、人類の卵を破壊する場面がないのでナウシカは「破壊と慈悲の混沌だ」というヴ王の言葉がこの舞台を観ただけでは「慈悲」はわかるけど「破壊」のほうが伝わってこないこともあって、特に原作を知らない観客には勧善懲悪的なラストに感じてしまうのではないかと。

ここでナウシカの造形の話をしますが、歌舞伎版のナウシカは「聖女」として描きすぎたと思いました。原作のナウシカは怒りに駆られれば人を殺すし、見方によれば偽善者でもあるし、決して清廉潔癖な聖女などではないんだよね。自らのなかに制御しきれない攻撃性があると自覚してるし。でも歌舞伎版はユパ様に止められるまで怒りのまま剣を振るう場面こそあるものの相手が「死んでる」という描写にはなってなかったし、子供を救おうとする場面もないし、ナウシカの“闇”が見えるところはほぼないのです。 “カイに乗り土鬼を斬って「手を血で穢す」”場面であり“ナウシカの盾となりトルメキア兵が死んでいく”場面が怪我により丸ごとカットされたそうなのでそのせいかもしれませんが、強さや気高さ、勇猛果敢さといった要素はほぼなく、純潔で清廉な姫さまという人物像でイメージとしては「映画版ナウシカ」に近く、そんなナウシカがようやっと「本性」を見せるのが庭の主との対話であり墓の主との対話なので、そこに至る心理的説得力というか、共感性に欠けるんですよね。それでもこの『対話』こそが昼夜通し狂言としてまで『やりたかったこと』であることは伝わってくるし、それだけの熱演であるのに、毛振り対決の終わらせ方により善と悪に見えてしまったとすればもったいないというか残念というか。

しかしナウシカって思った以上に演じるのが難しいキャラクターなのだなぁ。
宮崎駿さんに歌舞伎化を許可してもらうにあたり「ナウシカ」という名前を変えてはならないという条件が出されたそうなので、NINAGAWA十二夜のように舞台を日本に置き換えることはもちろん、マハーバーラタのように名前を漢字にすることもなく、歌舞伎の舞台上で『風の谷のナウシカ』の世界をそのまんま表現したわけですが、ワンピース歌舞伎やNARUTOのように言葉遣いを原作に寄せて現代語にすることはせず歌舞伎調に変えての上演で、それが特にうまいこと調和したのが巳之助さん演じる皇弟ミラルパ/皇兄ナムリスであり種之助くん演じる道化であったわけですが、両者は参考にできるような役が歌舞伎にある(がゆえに調和した)のに対しナウシカには思い当たるような型がない。つまりゼロから歌舞伎版ナウシカを作らねばならないわけで、さすがの菊之助さんも手こずったかなぁ・・・という印象です。

これは結果論ですが、なまじ「女形」として演じたのが違和感の理由だったかなーと。見た目ひとつとってもクシャナ様は背筋を張って足を広げ立っているにに対しナウシカは常に肩を下げ腰を落とし膝を曲げて内股にするという女形の型で演じてたんですよね。着物ならばよくても膝丈の衣装だもんで内股なのが丸見えで、この時点でナウシカの凛々しさが失われてしまったもの。
“兄想いの弟”という要素に特化したワンピース歌舞伎のルフィと同じアプローチで“この世に生きる全てのものを愛する心優しき少女”という側面を全面に出したのかなと、そしてそれは血塗られた道を進むクシャナ殿下との対比という意図があってのものなのかなと解釈しますが、それはいい(わかる)としてもそれを歌舞伎の舞台上で役として成立させるのは菊之助さんの演技力・表現力をもってしても至難の業だった。演出も夜の部とか特にナウシカは出てきたと思ったらどこどこへ行きますっつって花道通って目的地へ向かうことを繰り返すことしかしてなかった印象だし。

ていうか、ここはもうイケるだろうと、どハマリするだろうと思った七之助さんのクシャナ殿下が予想以上の期待以上、とんでもないレベルでクシャナ殿下を舞台上に顕現させてくれちゃったもんで、ナウシカが割を食っちゃった感が無きにしも非ず。

クシャナ殿下についてはまちがいなく観客全員が「私・僕も豚と呼ばれたい!!!!!!」で満場一致なのでナウシカ素人のわたしごときがこれ以上言うことはなにもありませんが、わたしのオタク人生史における2.5次元トップの座がついに中村七之助さんのクシャナ殿下に奪われました!!!!!とだけ宣言しておきます。あと橘太郎さんのミトじい。ミトじい本物すぎた。

あああああ!でもでもひとつだけ!。首だけでも生きてるナムリスを手荒く扱うクシャナ様はぜひともやっていただきたかったです・・・。というか、クシャナ様に手荒く扱われる巳之助ナムリスの首を見たかった・・・。これこそ歌舞伎の舞台でならなんなくやれる原作の舞台化描写だと思ったんだけどなー。

それからこの流れで特筆しておくこととして、庭の主を演じた中村芝のぶさんがすんんんんんんんんんんんんばらしかった!!。序幕でナウシカの母を演じるのはこの前フリだったのか!と、母から庭の主に戻るシームレスさに、通し狂言のなかで非常に重要な対話の場面で見事に菊之助さんと渡り合う芝のぶさんに興奮のあまり打ち震えましたわ。この芝のぶさんを拝めただけでナウシカ歌舞伎を観た甲斐があったと言い切れる。

前述したけど巳之助さんと種之助くんもすこぶるよかった。巳之助さんはミラルパとナムリスの演じ分けがはっきりとしてて説明されずともその人間性であり関係性が理解できる悪役だったし(みっさまはナルトのような真っ直ぐの役よりひねくれた(悪)役のほうが合うよね)、首ちょんぱこそなかったけど背ギバかっこよすぎだし!、種之助くんは夜の部の影の立役者と言っていい活躍っぷり。これまた前述の「見せ場」には関わらないけれど、それぞれ歌舞伎ならではの役作りとして作品の一部をしっかりと担ってて、若手の配役としては完璧といっていいのではないですかね。松也ユパ様の最期が原作とは違うものの仏倒れだったのも松也ファンとして大歓喜でしたし。それに加えて歌六さんや又五郎さん、なにより吉右衛門さんをこういう形で配役できるところが菊之助さんの強みだよなぁ。

ていうか夜の部幕開けの名乗りが超絶かっこよかったんですよ。道化・種之助くんの世界観・用語説明から始まり、登場人物たちを紹介していくのですが、まず歌六さんのヴ王がトルメキア兵を従えセリから登場し、続いて背後の一段上がったところで巳之助さん皇弟ミラルパ、その横で控える錦之助さんチャルカが、さらにもう一段上がって松也さんユパ様、右近くんアスベルと米吉くんケチャ、そして舞台最前で七之助さんクシャナ亀蔵さんクロトワが名乗りを上げ、最後に再びヴ王がせりあがってくるという演出で、これがとにかく格好良く、もちろん最後は菊之助さんナウシカが登場するんだけど、舞台が回転しナウシカの背後にタイトルがどーん!と出るこの幕開けは最高オブ最高でした。これはぜひとも映像で手に入れたい(そしてアホほどリピりたい)。
そして、願わくば菊之助さんが万全の状態での完全版が観たい。メーヴェに乗って空を飛ぶ菊之助ナウシカが観たい。演舞場でなくとも、上演が叶うならばどこへでも馳せ参じる所存です!。