『RADIANT BABY〜キース・へリングの生涯〜』@シアタークリエ

やっとマイ初日を迎えることができました。「カッキーすごい。これを一日二公演とか死んじゃうんじゃないか・・・」ってな感想を見聞きするたび早く観たいみたいー!とジタバタしていたわけですが、観終ったあとわたしの中にある感情は、カッキーへの愛と憎しみ100%。

たくさんの絵を知ってるし、地下鉄の構内に描いていたことも、31歳で亡くなったことも、その理由がAIDSであることも知ってるし、顔も知ってる。だけど『キース・へリング』という人間のことはほとんど知らなくって、知らないんだってことをこの舞台でわたしは知った。

で、それはもうキース・へリングを演じる柿澤勇人とイコールになってしまった。舞台上で描いて飛んで跳ねて叫んで脱いで描いて、エネルギッシュでエキセントリックなキースはカッキーでカッキーはキースで。

この舞台の柿澤勇人を称賛する言葉として、最も多く使われているのはおそらく「魂」だと思うのだけど、役に魂を吹き込むとかそんなレベルじゃないんですよ、カッキーのキースは。もうね、魂が剥き出しなの。剥き出しの魂そのものなんです。それはキース・へリングの魂であり、そして柿澤勇人の魂。
繰り返しになりますが、わたしはキース・へリングという人間のことをほとんど知らない。だから全身全霊で叫び苦しみ抗い葛藤し狂う目の前にいるキースという若者がキース・へリングなのかどうかわからない。だけどきっとこんな人間だったんだろうなって。

剥き出しの魂が痛々しくて、うかつに触ったら痛みを与えてしまいそうで、壊れそうで怖くって、我儘で傲慢で孤独な天才。

で、そんなキースをわたしは恋人のカルロス目線で見てしまったのです。カルロスの気持ちに同化してしまったのです。
辛かった・・・。ていうか今も辛い。
今も松下洸平くんのカルロスを思うと苦しくて苦しくて狂おしくてギャー!!ってなる。

キースの才能にいち早く目をつけ、田舎から出てきたキースにいろんなことを教えてくれるクワンはキースをアーティスティックな面で支える同志で、アシスタントのアマンダはキースが自由に絵を描けるよう実務的な面を全面的にサポートする仲間なんだよね。つまりアーティストとしてのキース・へリングにとって二人は必要不可欠な存在と言える。
それに対しカルロスはというと、出来ることは何もない。
出会った当初こそお互いの存在がインスピレーションの元になり、それを運命だと感じたんだろうけど、でもキースとカルロスの生きるスピードは同じじゃなくて、カルロスは置いていかれてしまうのです。

カルロスにはクワンのようにキースと同じものを見ることはできないし、アマンダのようにキースを支えることもできない。
2人がアーティストとしてのキースを支えるならばカルロスは人間としてのキースを支えればいいって思ったけど、最初はそういう存在なんだと思って観ていたけど、でもすぐわかってしまうんですよね。キース・へリングは24時間365日アーティストなんだと。キースにとって生きることは絵を描くこと。それ以外ないのだと。

キースはカルロスに夢でありビジョンを語るけど、そこにカルロスの存在はないんだよね。
そしてキースはカルロスに「夢は?」と聞いてはくれない。
キースを愛すれば愛するほど、カルロスは孤独を感じていたんじゃないかな。

とか考えちゃって、もーうカッキーが憎らしいのなんのって!!。
東京まで連れていきながら10日間も放置で、仕事のためなら(自分の要求を通すためなら)DJである自分を差し置いて日本人のDJを探せばいいとか言うし、ほんともうなんなの!?なんなのこのクソ眼鏡男!!と。

だからカルロスがもうダメだと、別れを告げ、そして最後に「愛してる」と歌うのにはもうシンクロしすぎて心が咽び泣きだったのに(さすがに涙は堪えましたw)、そのあと(?)キースが発症し、死ぬまでの2年間にカルロスは存在してないんだよね。キースが駆け抜けた最期の2年間にカルロスは不要だったの。これが哀しくて哀しくて。

それまで原色を使ったポップな色合いに満ちていた舞台上から、最期の瞬間色がなくなるんですよね。色味のない舞台のうえには白い服に着替えたキースと、その隣には同じく白い服のクワンがいる。
キースと同じくAIDSを発症したと思しきクワンは、ずっとキースに向けていた穏やかなまなざしに涙を浮かべながら、そっとキースを抱きしめ抱き合う。
・・・・・・・ってクワン!?。最後までクワンなの!?。キースのアート感、価値観を理解できるのみならず、死を前にした気持ちまで共有できてしまうのっ!??。
そんなのずるい、ずるいだろ・・・・・・・・・。

そこに現れたカルロスは別れた日のまんまなんですよね。つまり『過去』。キースにとっては過去でしかない。
この最期の瞬間にカルロスを寄り添わせたこと。ここにどんな意味であり意図があるのか、明確なそれをまだわたしは見つけられていないのだけど、キースがカルロスを「見る」ことはなくって、それがたまらなく切ない。カッキーのばかー。




キース・へリングの絵を映像として多用する演出は視覚に訴えすぎてしんどい面は確かにあります。視覚的な刺激が強すぎて歌詞や台詞を理解するための脳内スペースが足りないというか。だから好みがわかれる舞台ではあると思います。LGBTも題材として難しいところはあるし。なので万人に薦められる、という作品ではないと。でもこのエネルギッシュさとセンシティブさが同居する柿澤勇人が演じるキース・へリングには一見の価値がある。そしてそれを愛する松下洸平くんが演じるカルロスの切なさも。

もし演出家の名前が理由で二の足踏んでる方がいるとすれば、(気持ちはわかるけど)それだけでこれをみないのはもったいないよ!。