ゴールデンのドラマで小栗旬の両隣に滝藤賢一と宮藤官九郎がいる図はちょっと・・・・・・グッとくるものがあったわぁ。
だっておそらくこれを見た大半の人(特にドラマ(俳優)オタクじゃない人)が滝藤さんは半沢の人、クドカンはあまちゃんの人ってちゃんと「認識」してたと思うのね。双方とも別に滝藤さんでありクドカンでなければならない役ではないわけで、でも半沢でありあまちゃんを経たからおぐりさんの隣にいることに二人が負けてないと思うの。多分それを『知名度』というのだろうけど、ブームも悪いもんじゃねーなーと。
おぐりさんと幽霊クドカンのやりとりとかほのぼのしたし、最後に見たかった妻子の笑顔を見て満足したからか、それとも「今ごろ焼かれてんのかなー」ってことなのかはっきりとは分からなかったけど、なんだかんだで幽霊クドカンが消えて寂しそうな表情を浮かべ、そしてもうちょっと見ていきますねと涙目で言うおぐりさんにはつられ泣きしそうになったし、何か一ひねりがあるんじゃないかと構えながら見た物語のオチが滝藤さんが代筆した遺書を読んで泣く妻と子をそっとぎゅっと抱きしめるクドカン父親ってのは1.2話あたりの前半ではなく箸休め的な感じで中盤に持ってきたことも含め『一つの物語』として悪くなかったんだけど、でもクドカンが死んでた家の人は気の毒だなぁ・・・と。もしわたしがあの家の住人で、朝出勤しようとしたら玄関先に知らないオッサンが死んでたとかちょっとしたトラウマになると思うし、ご近所にだって「ここで人が死んでたのよねぇ〜」なんつって噂話されたりするだろ。自宅と玄関先が似てたってだけでそんなもん背負う羽目になる死体発見現場の家のことを思うと素直に「いい話だなー」と思うのはどうかなーと思ってしまう。なんでこういう見方しかできないのかと自分でも思うんだけどw。
それから一人焼肉一人カラオケとか「お一人様」ランキングで『一人遊園地』ってのは結構な高レベルらしいのですが、わたし一人遊園地は余裕で出来るんじゃないかと思ってたんですよね。遊園地なんてみんな自分(たち)が楽しむことしか考えてなくて他人のことなんて見てねーだろうと思ってたし、一人カラオケで発散するのも一人絶叫マシンで発散するのもそんな変わらないだろうし、一人になりたいときに観覧車という密室は選択肢としてそんなにおかしな場所じゃないだろうと、そう思ってたんだけど、一人で遊園地に居る人間はこうもじろじろとあけすけな視線を送られるんですね・・・・・・。これは無理だわ・・・・・・。
あといっぱい呑んだ次の日に正体不明の痣が複数あるという経験を少なからずしているわたしなのでいろいろと気を付けようとおもいました。畳の上で死ねない覚悟はしてるけどできるだけ他人様に迷惑はかけたくないもん。でも酔っ払ってるから気を付けることに気が回らないんですけどぉー。
あとあともはや何の犯人を追いかけていたのか覚えてないんだけどw、走りのみならず壁を乗り越える動きがスタイリッシュでキマッてるおぐりさんに対し壁をぶち破るという荒業を見せた青木のコンビっぷりに燃えて萌えつつやっぱ脳筋(英明さん)×脳筋(坂口)はダメだ(笑)とか思ったりw。