『Musical CROSS ROAD~悪魔のヴァイオリニスト・パガニーニ~』@シアタークリエ

3公演分のチケットを持っていましたが、キャスト変更と上演中止が重なり結局観ることができたのは1公演のみでした。
それについてはまあ思うところはありますがそこは「仕方ない」で終わらせるとして、次に見るとき確認しようと思っていたことがいくつかあるので、消化できずに終わったことをもし再演(自分のお目当てキャストも再出演)となったときのために書き残しておきます。

この作品は悪魔と契約したと噂される(それほどの超絶技巧を持つ)ヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニの生涯を、『本当に悪魔と契約していた』という設定として、1幕はパガニーニの死後に執事・アルマンドパガニーニの弟子を名乗るジプシーの少女・アーシャによる追悼(思い出語り)として描き、ナポレオンの妹であるエリザと出会うところから始まる2幕は現在(アルマンドとアーシャの思い出語り)に戻ることはなく、過去の時系列のままパガニーニの死まで描き切るという構成です。
なので図式としては「パガニーニと●●の関係」がそれぞれ描かれるという感じなのですが、

悪魔・アムドゥスキアスとは「共犯」的な関係
「愛」することでパガニーニの命を削るファムファタール・エリザとの関係
パガニーニにヴァイオリンを与えた母・テレーザとの「親子」関係
パガニーニに仕える執事・アルマンドとの「主従」関係
楽家ベルリオーズとの「友情」関係

と、ここは描写の濃淡はあれど「見ていればわかる」のに対し、アーシャというキャラクターだけがよくわからなかった。
パガニーニとの関係性としては「師弟関係」であり、才能はあるが天才ではないことを理解した瞬間から母親の期待すら呪いであり、悪魔と契約してからはその契約に縛られつづけるパガニーニと、音楽を楽しみ「自由」を求めるアーシャの存在が「対」になってることは解るんだけど、アーシャが音楽に拘る?理由がわからん。
ジプシーであることを理由に差別されていて、アーシャという名前があるのに「ジプシーの娘」と呼ばれる(個として認めてもらえない)人生を生きるがゆえに「自由」を欲することに対し、その手段が音楽でなければならない理由、パガニーニの音楽でなければならない理由がわたしにはわからなかった。
たとえ人生の十字路に立つ者にしか見えない(岐路に立ったものには見えてしまう)アムドゥスキアスの姿が見えていたとしても。

でもじゃあアーシャを掘り下げてほしいか?と言われたらそれはノーなのよ。だってこの娘に興味がないから。
アーシャの「ジプシーの娘」扱いは、エリザという名前を「ナポレオンの妹」になったことで奪われたエリザとクロスさせて描くこともできたのではないかと思うけど、そこが繋がることはないし。
毎度パガニーニの屋敷に忍び込むのは熱意の表れと受け止めるにしても、パガニーニのコンサートはチケットが高いと散々言ってるってのにロンドンやパリのコンサートも聞きました♪とか言ってるのにはジプシーの娘がそれだけの代金をどうやって工面したんだ?となるし、このキャラクターだけがあまりにもふわふわしすぎてて、キツイ言い方をするけど邪魔なんですよね。誰かがパガニーニを偲ぶ(それが物語の始まりになる)必要があるならばそれはアルマンド一人で充分だし。

とは言ったけど、このアルマンドにも疑問はあって、アルマンドパガニーニの執事になったのは生まれ育ったジェノバを追放された後なんですよね。
その時点で既にパガニーニはアムドゥスキアスと契約してて「悪魔のヴァイオリニスト」と呼ばれる存在であったわけで、悪魔云々もそうだけど天の才を持つヴァイオリニストとしてイケイケだもんで性格もよろしくないわけですよ。
そんなパガニーニをまるで父親のように慈しむのはなぜなのか、母親にすら「本当のこと」が言えないパガニーニがアムドゥスキアスと交わした「血の契約」についてアルマンドにだけそれを話したのはなぜなのか、それだけ心を許せた、アルマンドの前でだけはほんの一時でも「天才」「悪魔」の仮面を外したただのニコロでいられたのはなぜなのか、せっかくミュージカルにしたんだからそこを想像に任せるのではなく歌にしてほしかった。

この「歌」もですね、いいところもあればどうかな?と思うところもあって。
曲そのものは全体的に既視感あり目なものの(アルマンドの独唱とか完全にBHHでした)、時折ミュージカルらしからぬ音の動きが聞こえたりして悪くはないんだけど、いかんせん歌詞が同じことの繰り返しだもんで飽きる。
ミュージカルの曲ってただ「愛してる・愛しただけ」って歌えばいい(それだけが客に伝わればいい)ってもんじゃないとわたしは思うんだけど。
この愛してるの繰り返しはエリザのソロ曲なんだけど、エリザがパガニーニのことを「愛した」理由はわかるんですよ。「ナポレオンの妹」と呼ばれ、「ナポレオンの妹」だからおべっか使われチヤホヤされる毎日に、突如現れた天才俺様ヴァイオリニストが「エリザ」と呼んでくれたらそら一発で落ちるでしょと、そこはわかるの。だからエリザは愛する男のためにあちこちで男を売り込みコンサートを開き、男の地位を高めてまたコンサートを開くわけで、それが結果悪魔との契約に基づいて愛する男の命をガンガン削ってたことを知り、自分は「ただ愛しただけなのに」と歌うんだけど、この曲マジで「それだけ」なんですよ。
ミュージカルの曲って『台詞』と同じですよね?。ソロ曲であれば『独白』になるとわたしは認識してるけど、「愛してる」「愛しただけ」って言うのにどんだけ時間かけてんねんと。

そもそもこの作品は総じて曲が長いのよ。ここで終わるだろう(終わってほしい)と思ってもさらにもう一回サビが来るって感じで、それでも違うことを歌うならまだしも同じ歌詞を繰り返すだけなので、台詞としては「もうわかった。それはもうわかったから話を進めて?」となるわけですよ。せっかくいいなと思う曲であっても最終的には飽きてしまう。

そのくせアッキーには「これ」といった曲がない。
アムドゥスキアスは飛び道具的なポジションで、おそらく朗読劇でもさほど台詞はなかったのではないかと想像するけど、ミュージカル版ではトップクレジットであるわけじゃないですか。主役はパガニーニだけど、それと対となる存在として、それを中川晃教が演じることを「売り」にしてるのに、アムドゥスキアスがこれでもかーーーーーーーーーーー!と歌い上げる曲がないのが残念。
地声で歌うことがほぼない(ほとんどファルセット)のは「悪魔感」を出すためのあえてのことだと想像しますが、『音楽』を扱う作品で、『音楽の悪魔』であるアッキーが全力全開で劇場を呑み込み捕らえる大ナンバーを歌わせないとか意味がわからない。

で、ここまで書いた諸々ってのは、脚本と演出と作曲がミュージカル畑の人ではないからではないかなと、そこに理由を求めてしまうんですよね。
始終「勝手が違う」という感覚があったんですよ。
わたしがもう一度観劇して確かめたいと思った最たることはそれ。初見ではしっくりこなかったけど2回目で嵌ったという感想をチラホラ目にしたのは、勝手が違うことに慣れたからじゃないかなと、それを自分で確かめたかったの。

と思ってたんだけど、中止になったチケットを所有してる者として一連の騒動を追う過程で「観客」の存在がおざなりにされているとしか思えず、なんだか馬鹿馬鹿しくなってしまった。だいすきな人が出演しているのでどうでもいいとは思わないけど、なんかもういいやーって、なんとか都合つければ残り公演を観ることができるかもしれないけど、今回はもういいかなと。

でも相葉っちのパガニーニはマントプレイしたりポニテにした髪をフワッサーと解いたり緊縛プレイしたり踊ったり超絶可愛い「ありがとおっ」って言ったりと素敵が盛りだくさんだったし、曲の音域もピッタリで安心&気持ちよく観ていられるので、状況が整っての再演ということであれば今回のぶんも全力で観劇したい。