『ミステリと言う勿れ』episode.8

原作だとこの話には整くんと一緒にアイビーハウスで「バイト」をする相良レンくんという「同世代」で「同性」のキャラクターがいるんです。「一人はあざとい小僧で一人は空気か」と言われるぐらい整くんとはタイプが異なる青年で、頭の回転が速くて目端が利くんだけど、そんな人でも“(集まった人たちの)名前を覚えるための努力をしている”と整くんに感じ入らせる、そういう存在(あとレンくんを通して整くんの学生生活の様子がほんのちょっと見える)がこの話に登場するんだけど、ドラマではそれが風呂光さんになってるもんでうんざりです。ガッカリではなくうんざり。

原作のレンくんは整くん同様天達先生の教え子なのでアイビーハウスでバイトをすることになんらおかしなことはないけど、レンくんの代わりを風呂光さんにさせるために「久能さんのことをもっとよく知りたいから久能さんの先生の講義を聞き」「久能さんの先生に挨拶をする」って、それストーカーの行動じゃんとしか思えないんだけど。しかもその「知りたい」と思う「相手」は「捜査で知り合った年下の大学生」ですよ?。なんで劇中でこんな行動がまかり通ってんのかわたしにはまったくもって理解ができない。

百歩譲ってそこは「恋ってそういうものじゃない?」ってことで流すとしても(風呂光→整の恋愛感情(描写)については無心でやり過ごすと決めたので)、原作は明確に「バイト」扱いだったけど(レンくんが「バイト代はしっかりもらう」と発言してる)、整くんはいいとしても風呂光さんはそうではないわけで、BBQの世話をしてることとか引っかかるじゃん。風呂光さんがよくても天達先生はどんなつもりでいるわけ(呼んだわけ)よ?と思うじゃん。
もっと言うなら刑事とはいえ女性を男しかいない泊りの集まりに誘うとか非常識だろって話でしょ。それに乗るほうも乗るほうもだし。
本来ならばそんなことを考える必要・余地がないのに風呂光さんに代えたせいでそういう余計なモヤモヤが生まれることがマジでうんざりなんですよ。

そして映像という形で改めて見ると、レンくんのあの陽性さ、蔦曰く「あざとさ」ってのはこの話(アイビーハウス)に必要なんだなと感じる。なんか(前半から)必要以上に陰惨な空気になっちゃってるように見えるんだけど、それはレンくんがいないせいであり、レンくんの代わりの風呂光さんがジメっとしてるからなのではないかなと。

今更だけど風呂光さんなんでこんな陰気キャラにしたんだろう。原作の風呂光さんはむしろ元気溌剌タイプだし、伊藤沙莉の持ち味としても別にそういう感じはないのに。


というか、原作未読の人が風呂光さんがこの集まりに参加する流れであり(前半が終わったところまでの)アイビーハウスでの役回りについてどうとらえているのかが気になる。わたしのこのありすぎる違和感が原作を読んでしまったことによるのかが自分ではわからないので(「読んでしまった」と書いたことで察せられるでしょうが、ドラマを見終えてから原作を読めばよかったと後悔しているところです)。