『妻、小学生になる。』第5話

貴恵と万理華の「状態」を間接的に説明するための「わかりやすい演出」ではあるのでしょうが、出雲ちゃんとやらの「中」に「あの男」が入ってたってのはないわー・・・・・・。
いま「はいってた」と打とうとして「はいてた」と打ってしまったので「吐いてた」と変換されたんだけど、あながち間違いじゃないでしょコレ・・・・・・。

そしてこれ、出雲ちゃんの中から「出た」のであろう「男」の状態が貴恵と万理華にもあてはまるのだとしたら、やっぱり万理華は貴恵の「生まれ変わり」なんかじゃないじゃん。

男が出たあとの出雲ちゃんの状態がどうなのかはまだわからないので断言はできないけれど、見たものをそのまま判断すると「出雲ちゃんの中に入り小説を書いていた男が小説を書き終えたところでお役御免と出雲ちゃんの身体を解放した(出雲ちゃんのなかから出た)」のだろうと、わたしにはそう見えたんだけど、繰り返すけど出雲ちゃんの背景がわからないってところはあるけれども「入り込んだ側」に主導権があるように見えるわけで、出雲ちゃんも万理華もそれが「子供相手」だと思うと笑えるものも笑えないんだよ。
今の貴恵は「生まれ変わった」と思ってるんだろうしそんなことができるだなんて知らないってことだとしても、さっさと出ろよって話にしかならんでしょ。

新島親子が「この小学生は妻・ママだ」と信じることと、万理華の母親が「オムライス」と「ママ」呼びが「お母さん」呼びであることに気づいて「これは私の娘ではない」と認めること、どちらも『万理華の身体で貴恵がやったこと』により改められた認識なんだけど、真逆の結果になるのが普通ならば哀しいとか切ないとか、そういう方向に行きそうなもんだけど圭介がド天然ポンコツだもんで「・・・は?(この人何言ってんの?キモ・・・コワッ!)」となる千嘉で“笑い”になるところ、この作品の魅力はソコにあるのだろうとは思うんだけど、いつまでたっても「貴恵・ママが戻って来てくれた」という自分たちにとって都合のいい面しか見ない、見ようとしない新島親子がどうにもこうにも好きになれない