『マーキュリー・ファー』@世田谷パブリックシアター

2015年に高橋一生瀬戸康史の兄弟で制作された日本初演当時、ISに日本人が殺されるという事件が起き、自衛隊が海外で命の危険を伴う救出活動を行うための法整備を行う必要についての議論が活発になされ、わたしのような平和ボケ人間ですらその理不尽な暴力によっていとも簡単に命を奪われるという現実が自分の生きる世界と地続きに存在していることを突き付けられ、そんななかでこの作品を見た記憶はまだわたしのなかにしっかりと残っていて、それを今、2015年とはまた違う、全く違う種類の生命の危機に脅かされている中で吉沢亮北村匠海の兄弟で再演されることとなり、やはりこの作品は「そういう時」に上演される運命なのだろうか・・・なんてことを考えつつ、劇場に足を運びました。
感染者の数が桁違いに増えている中であっても(そのため観劇を断念した作品がいくつもあるけれど)この作品だけは観るのをやめるという選択肢はなかった。むしろ「観なければならない」という使命感すらありました。さらに言うとこのところ観劇しても感想を書く気力がないんだけど、これだけは気力振り絞ってでも書き残しておかねばならぬ。
わたしにとってそれほど大切な(大好きな、とはとても言えない)作品がこの「マーキュリー・ファー」です。


前回と今回の大きな違いは会場にあります。
前回は250席程度の極狭い空間であったのに対し、今回は約700という3倍近い客席数で3階席まである劇場での上演です。その違いは予想以上にあったように思う。

この作品の舞台は古い団地の「一室」。舞台上のセット自体は前回と今回で違いはほとんどありませんが、前回はその部屋への「入口」が客席後方の客が使う入退場扉だったものが今回は客席ギリギリの上手端に作られていた。
前回は客席もその「一室」であったところが今回その一室は「舞台上」にあるわけで、この違いが舞台と客席の間に境界線として存在していたように感じました。
つまり、舞台と客席は「別空間」だった。
客席の一番後ろでも“目線が同じ”ような空間では行われている「パーティ」の血しぶきをぶっかけられているような、臭いまで感じられるような、それほどまでに近い距離感で繰り広げられる狂乱を見せられていたものが(まさに「見せられる」という強引さがあった)、今回は3階席まで「届ける」演出であり演技であった(であろう)わけで、そりゃ没入感に違いは出るよね。

もし前回もこの会場ぐらい大きな空間で上演されていたならば、わたしはあれほどまでにこの物語の中に引きずり込まれることはなかったかもしれないし、7年経った今でも鮮明と言っていいほどの記憶となって残ることもなかったかもしれない。そのうえで、思い出補正を差し引いても、物語を知っていることを差し引いても、衝撃度は初演のほうがはるかに大きかった。
でも、社会情勢とシンクロしてるとはいえそれでもやはりその「暴力」はまだまだ遠いところでの話であった前回とは違い、この作品で描かれる「生と死」とは違うものの今回の「恐怖」はすぐそこにある。
そんな精神状態では今回の距離感が、舞台と客席の間に境界線があることが、とてもありがたかった。前回は心の全てを持っていかれてしまったけど、今回もそうであったらおそらく耐え切れずにどこかで心をシャットダウンしなければならなかっただろうと思うから。
その距離感のおかげで理性というか、3割ぐらいの平静さを保った状態で舞台の上で繰り広げられる狂ったパーティを観ることができた。


吉沢亮の顔面・・・美しかったわあ!(ここで突然テンションが変わるw)。

開幕直後に公開されたエリオットがダレンにバタフライを与える場面、まるで宗教画のようなこの場面を筆頭に、吉沢亮がいちいち美しい。怒鳴っても頭搔きむしっても顔がイイ。
こんなにも凄惨な物語のなかで、それでも吉沢亮の美しさは損なわれない。
怒りや憎しみや苛立ちや痛みに顔を歪めていることがほとんどなのに、歪んだその顔がまた美しい。

大河ドラマ主演」という特大級の大きな仕事をやり遂げた「次」が「舞台」で、しかも「マーキュリー・ファー」であること。そこに吉沢亮の俳優として「進む道」を見て取ったし、もろもろの事情やなんかがあってのこのタイミングでの上演が決まったのでしょうが、それも含めてこの流れには吉沢亮すげーなと感服しきり。
とかいいつつ3割の平静さは吉沢亮の顔面を高速で連写するためにフル回転でしたわ。



これから書くことがキャパの違いによるものなのか判断しかねているのですが、前回と今回では作品の見え方がかなり違いました。
前回公演はエリオットとダレンの兄弟しか見えていなかったといっても過言ではなかったけど、今回はとある人物に感情移入・・・とは違うんだけど、前回は特に考えさせられることはなかったとある人物の心情に引っ張られてしまったのです。
その人物とはスピンクス。演じるのは加治将樹

マーキュリー・ファーという作品はエリオットとダレンの兄弟愛の物語なんだけど、再演となる今回は兄弟愛だけでなく登場人物たちそれぞれの「愛」を感じたんですよ。そしてそれを最も強く感じたのがスピンクスだった。

エリオットが弟(と母親)を見捨てて一人逃げた時、エリオットを助けダレンを助け、姫と呼ぶことになる2人の母親を助けたのはなぜなのか。
兄弟に住処と仕事を与え、狂ったその母親の面倒を見るどころか「うんこの始末」までするほど尽くしているのはなぜなのか。

答えは「愛」だと思う。
なにがなんでもパーティを強行しようとするのは空爆の情報をもらい脱出の便宜を図ってもらうためだけど、それは姫と妹とエリオットとダレンの兄弟を守りたい、守らなければならないからで、それはつまり「愛」だろう。

今回の再演で驚いたことがひとつあって、それはスピンクスの妹であるローラの設定。
初演でローラを演じたのは中村中さんでしたが、見た目は女性なんですよ。女性にしか見えなかった。今にして思えば演じているのが中村中さんなんだからそういうことだと解りそうなものだけど、繰り返しますが一生エリオットと瀬戸ダレンしか見えてなかったから普通に(という言い方がよろしくないことはわかってますが、ここはあえて「ふつうに」と言わせてください)女性として見てたんです。見流していたんです。
で、今回ローラを演じるのは宮崎秋人くんで、赤いドレスにタイトなデニムジャケットを羽織り足元は赤のパンプスで、髪は短髪というビジュアルでした。見た目としては完全に「女装してる男性」。

・・・え?どういうこと??ローラってそういう設定なの???と脳内大混乱。

空爆後、生き延びることができたとしても「あの子みたいな子がどういう扱いを受けるかわかるだろう!?」とナズをパーティプレゼントの代わりにすることを躊躇うエリオットをスピンクスが説得するんだけど、「あの子みたいな子」ってのは「若い女」ってことだと解釈してたけどそういうことじゃないんじゃん。そうだよな、それならそのまんま「若い女」って言えばいいだけだもんな。自分の理解力の低さに絶望するわ・・・。

そうと解ってみると、暴動の最中からスピンクスに助けられ目を覚ましたエリオットとローラが名乗り合う「馴れ初め」もまったく違う情景として見えるんだけど、それと共にスピンクスが周囲から怖れられる「力」を手にしたのはローラという「妹」を守るためだったんじゃないかなと思えてくる。ここにも「兄妹愛」があるのだと。

情報を得る前にダレンがパーティゲストを撃ち殺してしまったことで絶望し大暴れするスピンクスに胸が苦しくなるとは自分でも驚きです。
スピンクスの怒りと嘆きがこんなにも刺さったのは、それだけスピンクスの「愛」が深いからだと思う。

空爆の音が聞こえるなか、大切な人を殺してやれる力があると感じるために正気を保ち続けてきたエリオットが「これからは僕が守るから、一緒に生きよう」と訴えるダレンの頭に銃を突きつけ続けるところで終幕となるのですが、吉沢エリオットには匠海ダレンを撃たないでほしい。撃たなかったと信じたい。ローラのためにも、スピンクスのためにも。


いやあ・・・まさかスピンクスの感想をここまで書くことになるとは思ってもみませんでした。これだから演劇って面白いんだよね。