『ミステリと言う勿れ』episode.2

整に対する違和感を筆頭に「なんか違う」と思わされ続けた初回だったけど、「そういうものだ」と理解しての2話だったせいか初回ほど「なんか違う」という気持ちに引っ張られることはなかったけど、そのためなのか今度は初回ではさして気にならなかった『改変』に引っかかって仕方がない。

整くんが印象派展のチケットを落としそれを風呂光さんが拾うという改変は「久能くんがバスジャックに遭っている」ことに警察が気づくためのフックとして、それぐらいならまあいいのではないかと思ってはいましたが、バスジャックの情報があるってんで観光バスも含めた運行状況を調べるという池本の行動も、その情報を元に一見共通点がない4人の被害者が路線バスを使っていたのではないか?という青砥さんの見立ても、どちらも風呂光さんの手柄になってて「うーむ・・・」となってしまった。

でも警察の動きは本筋とは直接関係ないっちゃないんで(キャスト的に風呂光にも物語性を持たせたい、風呂光の「成長」をドラマ版の軸のひとつにしたいという思惑は良し悪しは別として理解はできるし)それはまあいいかと思ってたけど、警察の突入があまりにも早く、犬堂兄弟の動機や誰が犯人かを指摘するために必要な描写や会話はまだぜんぜん足りてないんだけど・・・。

ドラマには尺という壁があるから原作を余すところなくすべて映像として描くことは無理だとしても、それにしたって足りなさすぎる。この材料で整くんが真相にたどり着けちゃったらさすがに「神かよ」となってしまうし、独自の視点で空気読まずに淡々と飄々と語る整くんに思わずツッコミ入れちゃうことで周囲の人間もついついつられて語ってしまい、結果的に乗客たちが話し合いをするような形になるなかで妙な連帯感が育まれ、そのなかに「ヒント」があるという原作の面白さをバッサリカットしておきながら「会話劇」を謳うなよ。

かと思えばいじめられてました話のバックにキングヌー流して「整くんの説法で救われてますよ」感を出し、一方で放浪してる元カレの話はコミカルなBGMと、どちらが刺さるかは受け取り手次第なのに(原作はそういう感じ)一方的に押し付けられてる感じがして「なんか違う」が「全然違わね?」になっちゃった(受け取り手次第といえば、ドラマ版では存在をないものにされてしまったマスク男の「孤独死」と「徘徊老人」の話がわたしは一番考えさせられたものだったので、そこいらへんの取捨選択からしてわたしとは「合わない」のかなーとは思う)。
百歩譲ってキングヌーで感動っぽい雰囲気作るならばいじめ話は乗客語りの最後にして、感動の直後に警察突入とするなら『ドラマ的演出』としてまだ理解ができただろうに、ヌーのあとでシームレスにコミカル挟んで警察突入ってさすがに酷い流れですねと言わざるを得ない。