『ミステリと言う勿れ』

ドラマ化されることが発表になってから原作を読んだクチです。
つまり主人公の久能整を菅田将暉が演じると知った上で原作を読んだわけですが、イメージがまったくもって合致しなくてですね、内容は面白い、というかすごく好みなんだけどそのイメージの違いがどうでるだろうかと不安を抱えての初回視聴でしたが、『内容としてはほぼ原作通りだけどなんか違う(しっくりこない)』という印象で、あーこれ原作を先に読んだのは失敗だったかな・・・という感じです。
エンケンさん演じる藪が実は「真犯人」だった、というところまでは予想できても(これは原作でも予想できた)殺した相手が妻子を殺した「犯人」ではなかったというトドメの一撃は未読の状態で見たかったかも、ってのもあったし。

原作でも1話目なのでまだ勝手がわかってなかったこともあってか藪の「やったこと」については哀れだな・・・と思うだけだったんだけど、映像になると『無関係の大学生に罪を着せようとした』ことに対しての『復讐相手を間違える』という結末に『罪と罰』としての意味を考えてしまったりと見方が深まるし、つまり内容はやはり面白いんですよ。期待通りなのよ。問題は「なんか違う」と思えてしまうことなんですよ。
原作を知らなかったら違うもなにもないわけで、そういう意味で失敗したかなーと。

で「なんか違う」と思う理由なんだけど、前述の通り菅田将暉の「整」が原作を読んでわたしのなかで構築された「整」とはだいぶ違うことよりも、ドラマの質感というか空気感というか、そういうものが原作とはずいぶん違うことのほうが『違和感』として強いように思う。
内容が内容だからかもだけどピリピリしてるというか殺伐とした空気感だけど、原作はもっと淡々としているというか、むしろふわふわしてると言ってもいいような雰囲気をわたしは感じて、そういう空気感のなかで「殺人」が描かれ、整くんの鋭いけど鋭いだけじゃない言葉が相手に時にサクっと時にザックリ刺さり、凝り固まったなにか・どこかを解すところにこの作品の面白味があると思っているのですが、ドラマは普通にドシリアスじゃない?と。

で、なんでそんな印象なのかというと、菅田将暉の整が原作よりも硬質だから、「そういう感じ」だからってことになっちゃうのかな・・・って、カレー作りながら歌ってても菅田将暉の整にポヤポヤした感じ皆無だもんって、結局「整が違う」ということになっちゃうんだよなー。

冤罪を着せようとした“加害者”である藪に対しては追い詰めるような言い方になっても心情的に仕方のないことだし、風呂光さんに対してはその心に寄り添おうとする優しさを感じたし、イメージは違えど整のこの膨大すぎる台詞はしっかりと届くわけで(整の「話相手」となる人物の名前を挿入する演出も利いてる)、ドラマ版の「整」は可愛げ皆無でズバズバ切り込むキャラってことならばはやいとこドラマ版としてイメージを切り替えたい。

そんななか、実は最も「原作とビジュアル違いすぎね?」と思ってた尾上松也の池本刑事がとてもいいオアシスになっているとわたしは思うのですがいかがでしょうか・・・(おそるおそる)。
原作のポヤポヤ感って吹き出しのなかにある「台詞」以外のところでちょいちょい挿入されるツッコミ的な書き込みによって作られているところも多いにあると思うんだけど、そのコミカルな感じが松也の池本くんにはある、それを担うポジションが松也の池本くんであるような気がするのですがいかがでしょうか・・・(さらにおそるおそる)。
でも顔芸がウザいってことは否定しません。そこは代わりに謝ります。ごめんな。
でも舌ペロの実写化は文句ないでしょ?でしょでしょ??。


初回放送までシークレットだった原作一の人気キャラだという我路については本格的に動く次回を見るまでなんとも言えないところではありますが、クレジット見るまで誰だか判別できなかった瑛太だったことはビックリです。驚愕と言っていいレベル。
(ていうか「プルシェンコかと思った」という感想を見てしまったらそう見えてきたってか、プルシェンコで想像してしまったので次見る時笑わずにいられる自信がないw)
そしてこのキャラが久保田悠来ってことはカジノの話をやるとしたら超絶納得です!!!(あーでもあれって整出てこないからやらないか)。