天童 荒太『迷子のままで』

迷子のままで

迷子のままで


別れた元妻との間に出来た子供が虐待死し、自らも再婚相手の連れ子に暴力を振るってしまった男の話と、震災の経験を自分なりに映画にしたいという夢のために福島で除染の仕事をする男の話の二本立てです。

それぞれの話のなかには「虐待」と「震災による被害(原発問題)」という主題のほかにも性差別や人種差別、社会的弱者といった問題が含まれていて、それらはまさに現代日本が抱える問題であるわけで、それに対して無力だし、無気力であることを、ただそれを事実として提示され続ける時間は苦しかった。

そこへもってきてのこの言葉。

「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任こそが悪の本体なのである。
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。 

これは、『いまから帰ります』という作品のなかで主人公が震災のあとで拾ったとある女子高生が生徒手帳に書き留めていた伊丹万作が昭和二十一年に『戦争責任者の問題』として発表したものの一文だと作中で説明されるものなのですが、これまんま今現在の日本国民、いや私自身のことで、何度でもだまされてる、70年以上経ってもなんら変化も進歩もしていない、それどころかむしろ酷くなっているのではないかということに絶望しそうになる。何もしない者に絶望する資格などないけれど。

物語のラストはそれぞれ束の間の休息時間を過ごした汚染作業員たちが仕事に向かうべく「いまから帰ります」と作業責任者に連絡を入れるところで終わります。でもそこに絶望はない。むしろ彼らは前向きに生きている。震災で行方不明となっている人から今も帰りを待っている人への伝言には思わず泣いてしまった。天童さんは優しいな。