『僕らは奇跡でできている』第5話

ドラマのタッチやそのセリフを引き出すまでの流れが似てるようで同じではないから比べることは無意味かもしれないけど、獣になれない私たちの「恋がしたい」には全く心が動かなかったけど育実の「愛されたい」にはちょっと心が痛くなった。
晶も育実も今現在生き辛さを抱えてる状況だけど、晶より育実のほうが自縄自縛感が強いからかなぁ・・・晶の場合は自分自身で諸々の現状を招いてるところがあって、しかもそれをある程度自覚してるけど、育実の場合は自分で自分を追い詰めてることに無自覚だよね。さらに晶と違って育実の厄介なところは自分の考え方だったり価値観だったりを他人にも求めることで、でもそれは決して悪意とかではなく育実にとってはそれが「当然のこと」だってところなんじゃないかな。育実にしてみりゃ当たり前のことだから、なぜ相手が育実にとって「それはないんじゃないの?」と思うことをするのか言うのかがわからない。だから育実のほうが人間として、女として、より痛い。
自分の心の奥底にあるもの、毎日必死で頑張ってる自分の願いが「愛されたい」だったことに気づいてしまった育実の涙は悲しみなのか空しさなのか。わたしが感じた心の痛さは哀れみ・・・・・・なのかなぁ(わたしはタイプで言えば育実でもなくトリンドルでもなくもう一人の同僚なので、同情はしても共感はしないもん)。とか言いつつわたしの視界は小屋に戻ったら泣いてるもんで文字通り目をぱちくりさせるあざとい(演技をする)高橋一生でいっぱいでしたが。
(ていうか徐に「歯ブラシ持ってます?」と聞き持ってないと返されると「僕が使ってたやつですけど」って使用済み歯ブラシ渡す一樹にはヤベエこいつこんな顔だけど気持ち悪い!!と思ってしまったけど、まさか服の汚れを落とすために使えってなことだとは)
一樹がやろうとしてるリスが道路の向こうに行くための橋作りってのは、道路のこっち側、育実で言えば親のクリニックを守ることであり新庄くんで言えば親の仕事を継ぐべきなのかという柵から、道路のあっち側、誰かのためではなく自分がやりたいことをやるための橋渡し、ということなのかな。その橋を渡りなよと背中を押してやるのではなく、手を引いて一緒に渡るのでもなく、橋の向こうからこっちへおいでよと誘うのでもなく、ただ橋を架けるだけ。橋の向こうが今よりも暮らしやすいかはわからないけど、橋を渡って道路の向こうへ行くか行かないか、その選択肢を与えようとしているのだと。
でも虹一の母親だけはそれが通用しそうにないのがなぁ・・・。虹一にとっての一輝が一輝にとってのお祖父ちゃんであり鮫島先生になったらいいなと思うけど、それには母親の存在を避けては通れないわけで、これはリスの橋とはまた違う問題じゃないのかなぁ・・・ってところをどう纏めてくるのだろうか。