『マクガワン・トリロジー』@世田谷パブリックシアター

IRAに属する「殺人マシーン」を自称するヴィクター・マクガワンの1984年、1985年、1986年それぞれにあった出来事を三幕=三部作(トリロジー)として描くという構成ですが(1幕後15分休憩を挟み2幕と3幕は続けて上演)、まず主人公を演じる松坂桃李の出ずっぱりっぷりに驚きました。2.3幕はそれぞれ趣里さんと高橋惠子さんとの二人芝居だし、まさかここまでマクガワン「だけ」の物語だとは。

そして松坂桃李以外の登場人物は全員死ぬ。全員マクガワンが殺す。正確には1幕でマクガワンと無線で交信してたひとは死なないけど(これ録音だと思ってたんで実際に役者が生で演じてたことをカーテンコールで知ってこれまた驚いた)、1幕でも2幕でも3幕でも、マクガワンは最終的に一人になる。

1幕、1984年のマクガワンはまさに「殺人マシーン」の名にふさわしいキレっぷりのイカレっぷりで、歌い踊り喋りながら躊躇いなく人を殺す。
2幕、1985年のマクガワンは思い出の湖畔で幼馴染の女に銃を向けるが、引き金を引くことを一旦躊躇い、殺したあとは声を上げて嘆く。
3幕、1986年のマクガワンは傷を負い、痴呆の母親の病室へ窓から忍び込み、会話を交わし、薬を飲ませ、そして再び窓から消える。

1幕→2幕→3幕と、マクガワンの「変化」は明らかなものの、その「間」に何があったのかは一切語られない。それでもマクガワンが見せる嘆き、そして絶望から、マクガワンが生きる世界の悲惨さを想像させられる。

コイツ完全に狂ってやがる・・・と思わされた1幕だけど、「規則」などお構いなしに躊躇いなく人を殺していた1幕の頃よりも苦しみながらそれでも「規則だから」人を殺す2幕の頃のほうが、そして自分のことがわからず話が通じない母の頭に足を下ろしそうな馬の影絵を見つめる3幕のほうが人間味を感じさせるぶん、その闇は深いと思わせられる。殺人“マシーン”なのではなく人を殺すことしかできない“人間”であることがわかるから。

そう。全編闇なのよ。希望なんて一ミリもない、どこまでも続く深い闇。それはマクガワンだけが抱えるものではないのだろう・・・という思いはそれとして、闇属性(だとわたしは思ってる)松坂桃李の力をここぞとばかりに引きだす題材・演目に、それに見事に応える松坂桃李に、震えを抑えるのに必死でした。

いやあ・・・よかったよ桃李!。顔をぬらぬらてかてかさせながら(雨に濡れた設定なので最初から顔面びしょびしょで登場するのですが、乾くどころかどんどんぬらぬらしていくのよ・・・)瞳孔おっぴろげ状態でラジオから流れる激しい曲に合わせてなんともいえない動き・・・踊りというよりまさに動き(この演技なのかそうではないのか判別できないリズム感皆無の動きが恐いのなんのって!次の瞬間なに仕出かすかわからない本能的な恐怖を感じたわ・・・)をする1幕のイカレモードは全力全開で振り切ってるぶん演りやすいのではないかと思うのですが、2.3幕の荒野のような、それでいて臓腑からじわじわと滲みでるような怒りと絶望、その底なし具合は桃李の持つ闇ゆえのものだった。と思う。

あとこれはそれを狙ったものではなく副産物的なものでしょうが、2幕で趣里さん演じる女がヴィクターに「抱きしめて」とお願いする場面があって、小さくて細い趣里さんを不器用に抱きしめる背の高い桃李の図がとてもよろしかったです。ここがなかったら桃李目当ての女性客にとってはキツさしか残らなかったのではなかろうか。

とにもかくにも全編松坂桃李。どこを切っても松坂桃李。デビュー作から見続けている松坂桃李が『こういう役』を演じる役者として成長していること、それを目の当たりにできたことがとてもとても嬉しい(その反面もうヒストリーボーイズのデイキンを演じることはないだろうな・・・という寂しさも覚えてしまったわけですが)。

エピソードのぶつ切りと言えなくもないトリロジー構成を「音楽」でもって統一する脚本と(1幕から幕間に流れるUKパンクっぽい曲がどれも良かったー!)、1幕はチップスに血の赤、2幕は車のヘッドライトに土埃、3幕は風に揺れるカーテンに影絵と視覚に訴える演出もよかった。