芸術祭十月大歌舞伎『極付印度伝 マハーバーラタ戦記』@歌舞伎座

面白かったー!!!まずはとにかく面白かったです。
マハーバーラタ戦記なるものすごく長大な書物?神話?があることは知ってる・・・というほぼほぼ知らないに等しいわたしは常々勤勉なオタクと自称しておりまして、なのでとりあえず読みやすくまとまっているという


マハーバーラタ戦記―賢者は呪い、神の子は戦う

マハーバーラタ戦記―賢者は呪い、神の子は戦う



この本を読んでから観劇に臨んだわけですが、多分読まなくても話の筋は理解できた。そして自分が読んだ本と比べて全く違和感がなかった。
さすがに相当端折ってるし、あらすじレベルであれもうちょい詳しい物語を知っているから補完できたところも足りないなと思うところもありましたが、それでも長大と言われる物語を知らなくても理解できる作りであることに、そしてインド神話と歌舞伎の親和性に、驚き興奮しときめく数時間でした。

音楽も衣装も舞台美術もなにもかもが素晴らしく、金ぴかの神様たちがずらっと居並ぶ幕開きからその文字通り眩いばかりのゴージャスさに度胆を抜かれ、廻り盆を多用し屏風スタイルの書割を効率良く切り替え場面転換の時間を極力短くする演出に感嘆しきり。特に見事だったのはこの屏風を折りたたんで1本の巨大な柱にするところ。両花道をものすごい勢いで馬車を走らせる迦楼奈と阿龍樹雷がその柱の周りを互いに矢を射ながら駆ける姿はまさに本の中で描かれていた戦いそのもので、今思い出しても興奮で体温がガッと上がる。

あの世界観を歌舞伎座でどう表現するのか、出来るのか、帝国劇場でエジプトを舞台にした漫画原作の舞台美術・演出にガッカリさせられたことがあったりするので不安だったというか、はっきり言ってしまえば期待してはいませんでした。無理やろと。だって歌舞伎だもん。マハーバーラタ戦記の『歌舞伎化』だもん。物語こそマハーバーラタではあるものの日本に置き換えるのだろうと、あたりまえにそう思っていたので、神様であり王子や姫の名前こそ漢字で表記されてはいるものの完全にインドが舞台でありインドの物語であることにほんとうに驚いた(あ、でも迦楼奈がお尻を蜂に刺された暴れ馬に懐かれる場面、迦楼奈が育った家の場面だけは日本っぽかった)。

でも歌舞伎なんだよね。歌舞伎役者が演じればそれは歌舞伎である(歌舞伎になる)とは新作が上演されるときによく聞く言葉ですが、このマハーバーラタ戦記はその言葉を用いるまでもなく、用いる必要などなく、普通に歌舞伎だった。なんでも歌舞伎にしちゃう歌舞伎の懐であり器の大きさというよりも(それもありはするでしょうが)、インド神話と日本の歌舞伎が某仮面ライダーじゃないけど『ベストマッチ!』って感じ。ここに至るには何年もかけての下準備があったことでしょうし、あらゆるジャンルの才能が知恵を絞り技術を駆使してこれだけのモノを作られたのでしょうが、そもそもの発端としてここまで見事に融合するとはほんとうにほんとうに驚きです。そこに目を付けた菊之助さんの発想力とプロデュース力と実行力に改めて惚れ直さずにはいられない!!!。

ていうか菊之助迦楼奈の輝きよ!!!!!。迦楼奈は太陽神を父に持つ生まれながらに輝いてる奇跡の子ではありますが、歌舞伎版マハーラーバタ戦記ではそれよりも「卑怯でなければ人は生きていけない」と言い切る鶴妖朶王女ですら認め憧れるほど真っ直ぐで真摯で誠実な人間性を強調して描かれているのです。これがとにかくもう菊之助さんにピッタリで、喋らずとも立って祈っているだけで迦楼奈の「真っ直ぐなイイ奴感」が伝わってくるんですよ。イイ奴って神の子に対して使っていい言葉じゃないですが、とにかくイイ奴。

でも阿龍樹雷だけは迦楼奈の目の奥に昏いなにかを見てとってて、それはライバル関係にある阿龍樹雷だけが感じる、阿龍樹雷にしかわからないものなのかと思いきや、そんな迦楼奈を『色気がある』と言い切るもんで「え??は??色気??え??そっちに行っちゃう!??????」って心のなかでアタフタソワソワからの拳握りましたが(笑)(そしてそんな弟に「お前のほうが怪しい!もう寝ろ!」と突っ込む次男ww)。

この菊之助迦楼奈と松也阿龍樹雷を始め配役もすこぶる良かった。

彦三郎さんの長男は理知的だけど弟たちを賭博の掛けにしちゃうダメさがあって、坂東亀蔵さんの次男は魔物の娘に一目惚れされるのも納得の雄々しさと猛々しさを持ち、松也さんは『無敵の三男!!』(この名乗り、ときめきすぎてぶっ倒れるかと思いました)、そして萬太郎くんと種之助くんはサイズ感もピッタリの末っ子双子と五人並んだシルエットからしてそれぞれの性格がわかるぐらい良バランスで(わたしが見たのは千穐楽でしたが、長男が「俺王様にならなくてもいいかなー」とか言いだすところで弟たちが「ちょっと!ちょっとちょっと!」って4人で声を揃えて突っ込んだのねw。これがザたっちのネタであることはわかったんだけど、なんでこの状況でたっち?と思ったら、これ本来は末っ子ツインズがやってたんですって。それなら納得w)(あと焼き殺すべく用意された屋敷で踊り女たちに「一緒に踊りましょう」と誘われる五兄弟ってなシーンがあるんだけど、次男と末っ子ツインズはノリノリで、長男もなにげに満更でもないって顔で踊るんだけど、三男だけはイヤってわけじゃないけど渋々ってな感情を隠さないのが激しくトキメキました)、対する100王子のほうは“長女とすぐ下の弟以外は後継者になれるわけがない無能揃い”として質対量として描くことを端から放棄し七之助さんの長女と片岡亀蔵さんの弟と勢力としては二人だけなのですが、七之助さんの鶴妖朶様、これがもう一人で百人力!!!。

歌舞伎化するにあたり、最も大きな改変は本来は男性(長男)であるところを女性(長女)にしたことだと思うのですが、七之助さんありきの改変であるにせよ違うにせよ(他の理由があるにせよ)、ここは大正解でしょう!。
私が読んだ本の中では長男・ドゥリヨーダナってのはとにかく性格の悪い小悪党なんですよね。やってることは「小」なんてものじゃないんだけど、でも学問でも武術でも100王子揃って五王子には全く敵わないうえに、焼き殺したはずの五兄弟(アルジュナ)に婿選びの弓の競技会で敗北したことを恨み、ありとあらゆる策略でもって五兄弟を苦しめようとする100王子の象徴のような存在なので言ってしまえば男として五王子に歯が立たないチンケな男なんですが、それを女に変えるとおなじことをしても卑怯とか姑息といった印象が恐ろしい策略家になるのです。
(もともとは王子、つまり男なので五兄弟と争う他に道はなかったと理解できるけど、歌舞伎版は王女にしたことで五兄弟の誰かと結婚して1つになるという選択肢はないのだろうか?という疑問が生まれてしまったけど)
というか、『99人の弟を率いる姉』って燃える設定じゃないですか!?。
そしてそれほど大勢の人間に囲まれながら生きているのに孤独な王女が初めて、唯一心から信頼できるのが「永遠の友情」を誓った男であるとかトキメキ設定すぎて脳汁ブッシャアアアアアアアア!ですわ。

本のなかではドゥリヨーダナとカルナの関係性ってそこまで強いものではないんです。競技会で身分を理由に辱めをうけたカルナにドゥリヨーダナが声をかけ弓の能力を認め取り立てるのですが、それによりカルナはドゥリヨーダナに恩義であり忠義を感じ共に戦うことを選ぶもののドゥリヨーダナはカルナを利用してるだけのようにわたしには読めました。歌舞伎版ではそこを阿龍樹雷と弓勝負するために鶴妖朶が迦楼奈にどこぞの国の王としての身分を与え、その見返りとして「永遠の友情」を求めるという改変がなされているのですが、この時点では鶴妖朶はドゥリヨーダナと同様に対五王子用の手駒・戦力として迦楼奈を取り込もうという目論見に思えてたものの、のちに唯一心を許せる存在が迦楼奈であるという心情を吐露するに至り、出会った瞬間からきっと鶴妖朶は迦楼奈とほんとうの意味で「友人」になりたいと願っていたのだなということがわかるのです。

鶴妖朶は孤独な王女だったと書きましたが、鶴妖朶自身はずっと孤独を感じていたわけではなく、迦楼奈と出会ったことで「それまでの自分は孤独であった」と知るのです。初めて魂の近しい存在と出会い、やがて五兄弟に対する憎悪を迦楼奈の前で見せてしまう自分を恥じるようになり、どうすれば迦楼奈のようにに真っ直ぐ生きられるのかと考えるようになる鶴妖朶。五兄弟との決戦を前に、争いを避けることを望んでいた迦楼奈は来ないだろうと、自分と共に戦ってはくれぬだろうと、ほぼほぼ諦めていたところに朝陽とともに駆けつけてくれた迦楼奈の姿は鶴妖朶の目にどう映っていたのだろうか。

繰り返すけど鶴妖朶は女であり迦楼奈は男。だからそこに友情ではなく愛情が芽生えてもおかしくないよね。でもそんな気配は微塵もない。鶴妖朶にとって迦楼奈はこの世でたったひとりの魂の片割れであり、そして迦楼奈もまた最期までそう在りつづけようとするのです。
自分に与えられた天命と鶴妖朶との友情の板挟みとなった迦楼奈が下した決断は、自ら命を絶つこと。自らの命とひきかえに、この戦いを終わらせることだった。

本では両者戦力を使い果たして(命を失い尽くして)終戦を迎えたのに対し、この自らの命でもって戦いを終わらせるという歌舞伎版の展開は問答無用で心を打たれるわけですが、この展開に説得力が生まれるのは迦楼奈と鶴妖朶に「永遠の友情」という関係性があるからだよね(加えて本ではアルジュラの友人であるクリシュナを100兄弟と五兄弟にとっての後見という立場に変えて仙人久理修那としたこと。従兄弟同士で殺し合うことに疑問を抱く阿龍樹雷に「現世に生まれた役割を果たせ」と、「我は我だ」と説き、そして戦いの最中迦楼奈に「お前の天命は戦を止めることではなかったか?」と諭すことで、阿龍樹雷と迦楼奈の決断により分りやすく理由付けができた)。

鶴妖朶様の死に様がクッッッッッッッッソ格好いいわけですよ。怪力自慢の風韋摩にトゲトゲハンマー(地獄の鬼がもってるみたいなやつ)を身体のど真ん中に全力で撃ち下ろされ息絶えてしまったのかと思いきや(風韋摩もそう思ったから勝利の雄叫びあげてその場から離れたのだろう)、暫しののちガバッと起き上がるのです。そして両手に剣を持ち前述の「卑怯でなければ人は生きられない」と、「卑怯出ない人間がどこにいる」と不敵に笑う鶴妖朶でしたが、次の瞬間「ああ、一人だけいたな。卑怯でないものが一人だけいた。私も迦楼奈のように生きたかった。迦楼奈、そなただけは生きよ!!」と叫びクロスにした剣で自分の首をかっ斬り階段落ち!!!!!!!!!!ってどうよこれ!?赤い甲冑を身に纏い黒くて長い髪を背中に垂らした王女様カッコよすぎるだろう!!!!!!!!!なんという滅びの美学!!!!!!!!。
本では迦楼奈のほうが先に死ぬんです。でも戦を止めるという天命と、鶴妖朶との友情を貫き通すためにはここで鶴妖朶が死なねばならなかった。そして鶴妖朶が素敵であればあるほど迦楼奈の決断により一層の「それ以外に道はない」感が出るわけで、いやはや鶴妖朶様、ほんとうに素敵な悪役でした。七之助さんにまたとんでもないハマリ役ができちゃったよ!(こんなのばっかりすぎて怖い・・・七之助さんが恐い・・・・・・)。

で、鶴妖朶に「生きろ」と言われたものの、その友情のために迦楼奈は自らの命を阿龍樹雷に取らせようとするのですが、ここがさあ!またさあ!すごいんですよほんとにもう!!。

自らの腹に剣を突き刺した迦楼奈は阿龍樹雷にトドメはお前が刺さねばならないと言うのですが、言われた阿龍樹雷はイヤイヤしながら「できない」と、そして「兄上!」って言うのよ。
知っていたのか?と聞かれ「(父親である)帝釈天様から聞いた」と答えたものの、その場面は劇中になかった。だから客もまたここで初めて阿龍樹雷が迦楼奈を同じ母を持つ兄だということを知ってると知らされるのです。

ここへきての「兄上」。迦楼奈にとって、同じ母を持つ兄弟でありながら自分ひとり阿龍樹雷たちのなかに入れない、兄弟として認められないことに恨みや妬みがちょっとはあったと思うのだけど、ここで阿龍樹雷が「兄上」と呼んでくれたこと、これが迦楼奈にとってどれほどの喜びだったのだろうかと思うとアカンまた泣けてくる・・・。だってイヤイヤしながらも兄上に言われた通りトドメを刺した阿龍樹雷が「あにうえ・・・あにうえ・・・!」と泣きながら呼びかけるのに笑みを作って優しく「阿龍樹羅」って呼ぶんだもん。

戦いを前に鶴妖朶様たちが仮花道、五兄弟が本花道にずらっと並んで勇ましく掛け合いをする迫力満点のシーンがあるんですが、この掛け合いの最後が
阿龍樹雷「迦楼奈!」
迦楼奈「阿龍樹雷!」
とお互いの名前を呼び合うという血沸き肉躍る燃え&萌え演出なのですが、この「阿龍樹雷!」があっての最期の「阿龍樹羅」なんですよ。巧すぎて泣きながら唸らざるをえなかった。
最期の最期、「兄上!」と絶叫する弟阿龍樹雷に抱かれ「父上、私の選んだ道に間違いはありませんでしたか?私はご期待に添う働きができましたか?」と天を仰ぎながら問い、そして「私は生まれてきてようございました」と微笑みながら迦楼奈は逝くのです。

最後まで生き残った五兄弟の長男百合守良は王となり国を治め、そして天に昇り神となった。今は阿龍樹雷の孫が王となり、それを祝うべく人々は祭りを行う。
神々は人間を見下ろしながら「今は踊れ」と言う。滅ぼすに値しない人間を認め、今は暫し微睡もうと、「だから踊れ、人間たちよ」と神は言う。


本を読み終わって受けた印象とはニュアンスとしてちょっと違うかな?と思いはしましたが、非常に美しくも深い終わり方で、幕が下りた瞬間なんともいえない暖かさに心のみならず全身が包まれるような心地でした。歌舞伎を見て「素敵!カッコいい!」という意味で目が幸せを感じることは多々ありますが、役者云々関係なくこの作品そのものを観ることができた喜びと満足感が心の底から湧きあがってきて、頭のてっぺんから天まで届きそうでした。
哲学的なことはさておき(それについては人それぞれの受け止め方でいいかと)、期待以上にエンターテイメント性の高いいい意味で誰にでも楽しめる歌舞伎作品になったと思うので、これはぜひとも再演してほしいです。