「地獄へは俺が行く」がこんなシチュエーションこんな理由で発せられるものだとは。
亥之助が一人“残される”描写が今となれば当然のことというかただそれだけのことであったとわかるけど、視聴してる最中は思わせぶりにみえたというか、虎松について旅立つ六左が弁慶みたいだなんて会話もあったしズバリ寺子屋展開の前フリにしか思えなかったので、心底安堵しました。自らの手で殺め首を斬った政次の地獄へは俺が行くという覚悟が首実検の場で直虎に台無しにされなかったことも含めて。
但馬が実は井伊のために動いてるということをほとんどの関係者が「知ってた(そうだと思ってた)」ってのがいいのかわるいのかわかりませんが、そんななかで直虎のなかに僅かながらでもあった政次に対する疑念がこれでようやく完全に払しょくされたのだろう(頑張って悪ぶってたのに思いっきり気づかれてたってのはトホホで済むかもしれないけど直虎がこの期に及んでまだ政次に対し疑う気持ちがあったってのは政次が可哀想すぎたよ・・・)。
井伊を取り戻すために自分が城代の座につかねばならないわけで、その代わりに虎松の首を差し出せと言われた以上この方法しかなかったのでしょうが、それでも虎松の身代わりの、家来たちが思わず顔を背けてしまうほど酷い状態の首を抱きしめ泣きながら経を唱える直虎を見て、直虎を気遣う想いを隠しきれない政次に切な狂いそう。
どこぞの子供は気の毒だけど、でも頭が言ったように(「あの人」呼び萌えたわー)疱瘡を患っていたのなら本人にとっても家族にとってもこれは悪いことではないのかもしれないわけで、この時代には「人は買える」ということをしっかり描いてきたことも併せてこの流れは唸らずにはいられない。
直虎のために井伊を取り戻すべく地獄への切符を手にした政次に亥之助が「かけがえのない友を守ってくれてありがとうございました」と言ってくれたことが、せめてもの救いでありますようにと祈ります。