ミュージカル『ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ』@紀伊國屋サザンシアター

泉見洋平さんと入野自由さんの回を観ました。

ゴッホ」という画家の話ではなく兄・ヴィンセントと弟・テオの物語は痛みと苦しみに満ちていたけれど、それでもどこか希望があって不思議な余韻の残る舞台でした。

わたしは特に演劇に関しては主観的という表現でいいのかどうかわかりませんが、舞台上の人物に共感し、物語に入り込んで観るほうです。なのですぐ泣く。
だから二人舞台なんていったらもうどっちかの心情にべったり張りついて自分のことのように受け止めてしまいそうなもんだけど、でもヴィンセントにもテオにもまったく感情移入することはありませんでした。ただただ絵を描くことを求める兄と、兄の才能を信じ支える弟の物語を観ていることしかできませんでした。

なんだろう・・・なんでなんだろう。頭のすみっこでずっとそう考えながら観ていたのですが、共感させてくれないなにかがあって、なにかがあるんだろうけど、わたしは結局それを見つけることはできなかった。

それが兄弟の苦しみの理由・・・・・・なのかなぁ?。

でもこの舞台のヴィンセントにはテオがいて、テオには妻子がいて、それが救いであり希望だった。そんな単純なものではないのでしょうが、わたしにはそこに救いであり希望を見出すことしかできなくて、でも死に向かう物語の先に希望を見出すことができたことはわたしの気持ちを軽くしてくれた。兄も死に弟も死んだのに、後味は晴れやか・・・・・・というとちょっと違うかなぁ?。やっぱりこの言葉が一番しっくりくるかな、『救われた』気がしました。ホッとした。

本来の持ち味(イメージ)とは真逆といっていい役を演じる泉見さんは感情を爆発させつつもやっぱり脆くて儚い兄で、そんな兄を支えるみゆはしっかりものの弟で、この兄だからこの弟なのか、この弟だからこの兄なのか、二人のデュエットを聴きながらそんなことを考えたりしたんだけど、ていうかみゆの「兄さん!」は鉄板な。「兄さん!」というだけでみゆは弟になるんです。

テオは(というかみゆは、かもしれない)低音パートを歌うことが多くて、みゆの武器は綺麗な高音だと思っているわたしはちょっと物足りなさを覚えたりしましたが(みゆが高音を唄うところはやっぱり気持ち良かったから余計に)、アフタートークで“これまでいろんな舞台を経験してきたからこそ今この役を演じられるところまできた”ってなことを言ってて、演技もそうだけど歌うこともそうだよなーって、かなり難しいであろう低音パートでもしっかり聴かせてくれるみゆの歌声を聴きながらそれを実感しました。
エア赤ちゃん抱っこの手つきはたどたどしすぎたけど(笑)。


ゴッホの絵を映像として多用する演出であることは事前情報とて知ってましたが、『アルルの寝室』を“実体化”したのは素晴らしかった。
そしてそれまで映像として見せていたものを、最後の最期、ヴィンセントが自らを解放した『カラスのいる麦畑』を“セット”にしたのが効いてた。ヴィンセントが退場するという演出上の都合もあるんだろうけど、ヴィンセントとテオの物語そのものがそれまでまるで美術館で“絵画”を観ているような気持ちにすらなっていたものを“演劇”に引き戻してくれたような、そんな感じがしたから。