『ちかえもん』第6回

義太夫さん「わりと」活躍回のつもりでいたら、出来る番頭・喜助さん大活躍回であった。
今回はあらゆる意味で辛すぎた替え歌タイムのなんとも言えない「間」に震え、「タヌキ、あぶなああああっい!!」に馬鹿じゃねーのって大笑いしてたらまさかの短刀がちかえもんの尻にプスーとか時代劇としてありえなさすぎるwww。なんだよこの効果音www。
この瞬間今年一番笑ったかもしれん(笑)。
お初のところに行かせないためにしたはずの嘘話があほぼんの脳内でものの見事に「親父がお初を身受け」として結びつくのが超絶説得力すぎて(笑)。わかってるこっちからすればコイツほんまもんのアホや!なんだけど、でもあほぼんの立場からすればド天然ピュアすぎる誤解も当然っちゃ当然なわけで。「汚い!大人は汚いいいいいいいいいいいい!」はほんとアホすぎたけど(笑)。
でもそこでちかえもんがあほぼんに何を言うたか知らんはずの番頭さんがさっと機転きかせてその場を収めようとしてて、大坂屈指の大店を仕切る番頭さんの手腕の片鱗を見たよね。
それを言うならちかえもんが書いたあの相関図を見ただけで今現在どんな状況でどんな関係性なのか、それをパッと理解できるあほぼんも頭は悪くないんだろうなーってことも。あほぼんと呼ばれようともそこは平野屋の跡取り息子なわけで、アホだけど馬鹿じゃないということなのだろう。馬鹿だったらあの相関図をトンチキ解釈するだろうしw。
こうやって台詞以外のところでちょっとずつ登場人物たちが肉付けされていくのがいいドラマの条件の1つだとわたしは思っているのですが、最近はなんでもかんでも台詞や演出で説明しちゃうドラマが多いよね。そこいらへんもドラマ衰退(視聴率が取れなくなっている)の原因じゃないかなぁ。
話逸れました。
で、ちかえもんが書いた「出世景清」を観て平野屋忠右衛門は商人としての仇討を、お初は武士の娘としての仇討を、それぞれ生きる目的・理由として今日まで生きてきたわけで、そしてそんな二人の人生を元にして、ちかえもん曽根崎心中を書くわけですよね。この巡り巡る感じはなんかすごいな。
あ!そうそう、以前回想シーンに出たお初の子供時代役の子がお初にそっくりで、よくこんなに似てる子を見つけられたなって感心したんだけど、忠右衛門がお初を見て「結城格之進の娘か」と気づくために似てる必要があったということなんだね。これぞ映像の説得力ですよ。
というわけで、今回のタイトルロールである義太夫さん。
これまでで最長の出世景清でしたが、わたしが浄瑠璃に触れるのはそれこそ歌舞伎でしかないので語れるほどの知識など持ち合わせてはいませんが、これちょっとすごいんじゃないの??。竹本義太夫が唄う出世景清によって二人の人間が仇討を決意したわけで、そのために必要なのが単に技量としての巧さだけならばそれこそ吹き替えでもいい、いや、吹き替えにした方がよかったかもしれない。でも多分この場面に必要なのは技術よりも魂なのだろう。近松門左衛門竹本義太夫によって物語に魂が吹き込まれ、その魂に忠右衛門とお初は触発されたのだと思う。
だからこの場面が嘘っぽく見えちゃったらダメだと思うんだよね。吹き替えだったらきっとそこに嘘が混じる。
これだけ唄うためにどれほどの練習が必要なのか想像もできませんが、少なくとも北村有起哉が演じる竹本義太夫による出世景清に嘘はなかった。これはすごいことだと思うの。義太夫さんしっかり活躍したじゃないの!!。
・・・と思ったら、義太夫さんの活躍はこれだけじゃなかったー!!!。
喜里さんを泣かすとかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!。
息子の才能、将来性、それについて引導を渡すのは母である自分の責任なのではないか、という喜里さんに「近松門左衛門は当代きっての人形浄瑠璃作者である」と、「当代きっての太夫である自分が言うのだから間違いない」と、そう言い切れるのは誰よりも近松門左衛門の才能を信じているのがほかならぬ義太夫さんだから、なんだよね。だって忠右衛門さんとお初の人生を変えてしまったんだもん。生きる意味を与えたんだもん。それがなによりの証拠ですよ。
そしておそらく義太夫さんにそう言ってもらったことで、母上はちかえもんと離れて郷里に行く決心がつくんだろうね。つまり今回の義太夫さんの活躍が次回の母上の決断に繋がるのだと。
義太夫さんってばわりとどころじゃない、しっかり活躍してるじゃないの!!。
ていうかわたしの憧れの人である富司純子様とわたしの大好きな人である北村有起哉さんがサシで語り合う時代劇を見られるだなんて幸せすぎです。
このシーン見ながらなんかしらん涙がブワってこみ上げたんだけど、多分幸せすぎたからだと思う。
ドラマ好きとして、こんなに面白くて次回が楽しみで楽しみで堪らないドラマに出会えるだなんて、ほんとうに幸せ。