『エリザベート』@帝国劇場

あらすじ含め作品はもちろん知ってるけど曲もまぁ聴いたことあるかなー程度のエリザ初心者なので、シンプルな物語であるぶんあらゆる場面で解釈がわかれるでしょうし、そういうことに関しては語れるほど観たとは到底言えないので触れずにおくとして、わたしが今回ついにエリザベートを観劇しようと決意した理由である松也ルキーニについてのみ書き残しておこうと思います。


今回わたしは万里生フランツと古川ルドルフを固定にして他のキャストは気にせずチケット確保に走りました。
・・・あれ?松也目当てなのに??(笑)。
いやだって松也だけでなく育三郎ルキーニもみなくちゃ松也ルキーニを客観的に評価できないじゃないですか。
・・・・・・って思いはもちろんあったけど、どう考えても松也よりもいっくんのほうが「素敵」だろうと思ったんだもんw。
とはいえちゃんと松也のほうを多く取りましたけどw。

で、マイ初日が井上トートだったもんで、舞台上でひとりずんぐり体型の松也が目立つのなんのってんで絶望したんですよね。OPでまずルキーニが登場するんだけど、トートダンサーたちに担がれ運ばれる姿がどうみてもトドなんだもん・・・。もう開始5分にして絶望でしたわたし。
演技はともかく歌も松也比(というかスリルミー比)では歌えてないと思ったし、いやあ・・・これ前途多難すぎるだろう・・・・・・と。

で、続いて城田トートとの回を観たんだけど、そしたら松也悪くないんですよ!。そんなにもっさりに見えないの!。
なんでだろうなーって考えて、直後に気づいた。背後にもっともっさりしたトート閣下がいるからだと。
ルキーニって基本独り芝居してるようなものだと思うんだけど、トート閣下とは絡むというか、シンメで歌う場面があったりするんですよね。そこ芳雄トートとだと胴回り倍ぐらいあんじゃねーか!?ってぐらいふとましく見えるんですよ。美しい世界観の舞台なのでキャストの皆様もまさに煌びやかといった感じなのですが、ルキーニだけは多分役柄的にはそんなにビジュアルを求められてはいないというか、はっきり言っちゃえばずんぐりむっくりでも問題ねーだろってな存在だと思うもののそれでもやっぱり・・・・・・気にはなるじゃないですか。なんか一人どすこい混じってんぞオイって思っちゃうじゃないですか。よりによってボーダー衣装だし(黒とグレーなのがまだ救い・・・)。それが井上トート回だとあからさまだったのに対し、城田トート回では松也をこえる図体のデカさが存在してるもんで、相対的に松也のずんぐり感がさほど目立たない!!。
それどころか二人で歌い上げるとこなんて「迫力がある」と言っても過言じゃない!!!。城田トートと松也ルキーニの背中合わせとか毎回全力でピギャれたし!!!(心の中で)。
・・・わたし、人生で初めて城田さんに心から感謝の念を抱きました。

反対に井上トートと育三郎ルキーニだと同じ場面が「シャープ」な印象で、Wキャストの旨味ってのはこういうところに出るんだなーと実感した次第。

ルキーニという役はエリザベート暗殺犯であり、狂言回しのような役だという認識でしたが、実際に見てみたらずいぶんと挑発的で驚きました。
エリザベートを殺害したあと自死したルキーニは100年もの間煉獄で審官から「なぜエリザべートを殺したのか」ということを問われ続けていて、ルキーニがそれに応える形で、ルキーニの証言を再現するというのがこの舞台の構図なんだけど、つまり『自分が殺した人間がどんな女であるか』ということを語るってなポジションなんですよね。今わたしの眼の前であれこれ説明してくれているのは「エリザベートを殺した男」なのです。だから悪い男であることには間違いないんだろうし、ルキーニは自らが語る人間たちを、ひいては世界を嫌悪し冷笑し嘲笑しているようにみえた。

で、松也はそこに「理由はない」のかなーと。生来がそういう男なんだろうなーという真正のゲスさであり狂ってるっぷりを感じさせるのに対し、育三郎さんはほんとうはそんな人間ではないのに「そうならざるを得なかった」のかなーという感じがしたんですよね。無政府主義者の敵である皇室の中心にいながらその皇室に苦しめられているシシィの孤独に同情してしまったがゆえに、というか。
松也ルキーニは生前もこんな調子だったっぽいけど、育三郎ルキーニはあえてこういう話し方をしているんじゃないか?という気がした。
そういう意味では劇中まったく語られないその生い立ちであり背景が気になるのは育三郎ルキーニのほう。
すきなのはナチュラル下衆野郎っぽい松也ルキーニだけどw。

繰り返しますがわたしはエリザベート素人なので、ルキーニの『正解』がわからないし、わたしの感じ方がまったくの見当違いであるかもしれませんが、でも(わたしが感じた)二人の演じるルキーニ像の違いはとても面白かった。
ルキーニ単体としての違い、それぞれのルキーニに対する印象のベースは同じでも、トートの違いによってまたすこし変化するし、シシィの違いによってもそう。
その点、わたしの好みとしては、井上トートと育三郎ルキーニ、城田トートと松也ルキーニの組み合わせがよかった。ビジュアルのみならずw物語の中での『在り方』の相性がいいのはこの組み合わせなんじゃないかなと。ていうか、城田&松也と比べると芳雄&育三郎の「正統派感」よw。

で、松也比では歌えていないと前述しましたが、さすがにこのメンツの中に入れられると単純に「歌唱力」という観点からすればやっぱり一段落ちるよねと言わざるを得ませんが、ミュージカルというものをさほど観ないわたしからすると、歌唱力では確実に 松也<育三郎 だけど、歌の表現力というか、歌詞として伝える力は 松也>育三郎 だった・・・・・・とおもいます・・・・・・(←そう書いてしまうことがちょっと怖い)。
ありとあらゆる場面で説明してくれるわけですが、それも聞き取り易いし、これわたしの解釈が間違ってたら恥ずかしいんだけど、ルキーニって「そこに居ない者」ですよね?。民衆にミルク配って煽動したり、カフェのオーナー(店員か?)としてコーヒー運んだりするけど(そこで他人を絡んだりするけど)、基本はシシィやフランツ、ルドルフたちとは同じ・・・・・・レイヤーではない、そこに別のレイヤーとして重なってるという表現で伝わりますかね? そういう存在のつもりで観てたんだけど、松也のずんぐり感、その異物感は、そんな特異な存在としてはアリなんじゃないかなーと思った。
いっくんルキーニはそれこそカフェのシーンなんか(見た目的に)馴染みまくってるわけで、それもまた「居ない者」の表現方法としてアリだろうけど、松也のほうがより“わかりやすかった”かなと。

とまぁダラダラ書き連ねましたが、結論としては松也ルキーニよかったです!!ということ。
ていうか、もう松也が帝劇の舞台、それもこれだけの超人気作に出ているというその事実であり現実だけで胸がいっぱいでした(このまんまミュージカル>歌舞伎になっちゃったらどうしようという不安は無きにしも非ずだけど・・・)。


もうひとりのお目当てだった古川くんのルドルフは、わたしがいうのもなんですがもはやルドルフとして熟したと言っていいのではなかろうか。ビジュアル完璧だろこれ。
父への反発心から(というふうにわたしには見えたんだけど)革命を起こそうとして失敗し、父に切り捨てられ母に見捨てられ、子供のころママに会えない寂しさにスルっとつけこんできた「友人」を再び求め、そして失意の中で自らのこめかみを撃ち抜く・・・というかわいそうな王子様にドンピシャすぎて、ただただ見惚れるわ。

汗と涙と鼻水でどろっどろの顔面なのに美しい。父上!と絶叫し泣きながら母にすがりつく様は愚か以外のなにものでもないのに、その姿はとても儚い。
ルドルフの見せ場である「闇が広がる」で、城田トートにはまさに呑みこまれるがごときで、井上トートには必死ですがるがごときだったのもゲスな表現ですが一粒で二度美味しい的な感じで、デビューの頃から古川くんを見続けてきたものとして、なんかもう・・・思い残すことはないなーと、ルドルフと一緒に死んでもいいなーとすら思った。古川ルドルフはもう今回で最後なのではないか?という予想もあるようですが、そうであるなら今回しっかりと古川ルドルフを見ることができてほんとうによかった。

ていうか芳雄さん・・・キスしたあとでルドルフとおでこをくっつけるところまでは全力でハァハァできたものの鼻と鼻もぴったり密着させてんのにはさすがに「え、ちょっと・・・濃厚すぎじゃないですか・・・?」と一瞬まがおになりましたw。


というわけで、Wトート。なにもかもが対照的で、甲乙つけがたい。いや、つける必要ないけどw。
人外感は圧倒的に城田トートなんですよね。登場した瞬間からもうナチュラル人外。ひとりだけサイズ感違うしw。対して井上トートは人外を、黄泉の帝王を演じてる感じ。

で、わたし城田トートがシシィを愛する理由というかその気持ちがどうにもこうにも理解できなかったんですよ。ルドルフのように“玩具”としての執着ならわかるんだけど、そうではないわけですよね?。
トートをどんな存在としてみるか、シシィの中にある「死」への欲求というか、自由を求める女が最終的に行きつく先にある「死」を具現化した存在というか、概念的なものだとして見るのならば、トートがシシィを求めることにそれこそ理由なんてない、そんなものは必要としないと言えるのでしょうが、まぁそこいらへんはソレとして、城田トートからはシシィに対するそこまでの強い想いってのは感じなかったのね。

で、一方の井上トートからは強烈な執着心を感じた。その感情は非常に人間的で(そう思えた)、特にルドルフを失い死ぬことを求めるエリザベートに「まだ私を愛していない!」とキレる場面とかもう棺の上で大の字状態でふてくされてて、ちょwトート様子供かよwwとか思っちゃうぐらいで、それだけにようやくシシィを手に入れたラストシーンの達成感・・・って変な表現だけど、トート閣下がついに念願を果たされた!感は井上トートのほうが断然強かった。黄泉の帝王としてそれってどうなの??としても、わたしのような凡人に祝福されることなどトート閣下は望んでおられないとしても、井上トートを愛おしいと思う気持ちが抑えられない。