『マーキュリー・ファー』@シアタートラム

一生くんと瀬戸くんの美形タレ目兄弟がお互いを愛するがゆえに精神的肉体的に傷つけ合う物語・・・・・・かなーと予想していたわけですが、確かに精神的肉体的に傷つけ合いそして愛し合う物語ではありましたが違うの・・・わたしこんなガチなの想像してなかったの・・・・・・。
初見はとにかく呆然でした。圧倒的な暴力と悪意と狂気の渦に否が応にも巻き込まれ、抗う術がない。目を背け耳を塞ぎたくなるような物語なのにそれを許してくれない。客はただただ息を殺すようにしながら目の前で繰り広げられる狂乱を見ていることしかできない。

いやあ・・・・・・すごかった。小説や映画ではもっとすごい暴力であり殺戮でありを読んだり見たりしてはいるんです。舞台でだって表現としての死ならもっと激しいものを見たことがあります。でもこれは全然違った。文字として読み頭の中で想像する暴力とは、スクリーンを通して観る殺戮とは違う「生の暴力」であり「生の狂気」がここにあった。

白井さんが同じ劇場で演出された「4 Four」ほどではないものの、今回も客席含めた劇場全体が舞台空間なんですよね。無機質な劇場と荒廃した団地の一室は地続きで、俳優たちは客席最後方、客席に出入りする扉から登場したり退場したりするんですよ。この狂ったパーティが行われているのは『舞台上』ではないの。

客席同様舞台上も薄暗い中、フードを被り顔を隠した二人の青年がライトを片手に客席後方から現れるのね。会話を聞くに二人は兄弟でこの場所をパーティ会場にすべく準備しようとしているということがわかり、ちょっと頭の働きがよくないっぽい弟の相手をしながら片足を引きずる兄は「テキパキ」と窓を覆う戸板を剥がしていく・・・という始まりなのですが、一生くん演じる兄が板を剥がしていくごとに舞台=パーティ会場にだんだんと光が差し込み、やがてそこがどんな場所であるかが「見える」という演出なんだけど、終わってみるとこれがこの舞台そのものを象徴するというか、暗示しているというか、そんな感じであることがわかるの。パーティ会場がだんだんと明るくなっていくように、舞台上に存在する狂気はじわじわと客席を侵蝕し、いつの間にかどっぷり染まってて、そうと気が付いた時にはもう遅い、これは舞台上のことだと気持ちを切り離すことができなくなっているのです。

もちろん実際に暴力が行われているわけではない。目の前で行われているのは演技であり作り物であり、フィクションです。だけどもうそんなふうには見られない。そんなふうには考えられない。なにも考えられない。千葉雅子さんの「パパァ〜」という叫び声に精神がキリキリ抉られていくようで、ひたすらにこの拷問のような時間が早く終わってくれないかと願うわたしがいました。こういう話好きなはずなのに。

これが『舞台』というものなのだろう。これが『演劇』の持つ力なのだと思う。

そしてこれを『今』観ているという事実。1年半ほど前に白井さんはこれを演るなら今だと思ってしまったそうで、他国との争い、圧倒的な暴力が突如降りかかってくるかもしれない緊張感はもはや対岸の火事ではないと、そう仰っていましたが、確かにそれはそうです。集団的自衛権なんてものが声高に語られるようになった今、平和ボケしてるこの国はこれまでとは違う局面を迎えることになるのかもしれない。でも、それでも正直言ってリアリティはないわけですよ。ニュースを見たり聞いたりしてぼんやりと考えはするけれど、わたしにとってはそれはまだ「ぼんやり」でしかなかったんです。だけど今はそうじゃない。今は首を斬られ、生きたまま焼かれる人がいることを知っている。リアリティとはちょっと違うんだけど、そんな残虐な暴力があることを自分が住む世界の地続きとして感じることは出来る・・・ようになってしまった。

このどうしようもないどうすることもできない結末を抱えうつむきながら劇場をあとにし駅の改札へ向かうとき、平日のソワレはそうでもないけど休日がキツくてさぁ・・・。家族連れとかカップルとかみんな幸せそうに見えるわけですよ。それぞれいろいろあるにせよ、とりあえず衣食住は満たされ、大切な人とこれから楽しい時間を過ごし思い出が出来るんだろうなーって。でもそうじゃない人がいる。そうすることができない人がいる。劇中瀬戸くん演じる弟がミノタウロスは身体が人間の牛なのか頭が牛の人間なのか、牛ならば殺してもいいけどミノタウロスが人間ならば話し合うことが出来たかもしれないし、ミノタウロスだってラビリンスから脱出したかったかもしれない・・・ってな話をするんだけど、ここなぜか切なくて、なんだかわかんないけどすごく切なくて、生まれた場所が違うだけであって、生まれたところに暴力があっただけであって、そんなふうに生まれてしまっただけであって、それを運不運なんて言葉で片付けるつもりはないけれど、でも現実にわたしは毎日観劇なんて娯楽にお金と時間を使うことができ、その娯楽からこんなことを考える。考えつつも一生くんのグレーのTシャツ(うっすら汗染み付き)にツナギ腰巻きカッコいいなーって、弟を必死で庇い守る弱くて優しいお兄ちゃん一生くん素敵だなーってときめいちゃったりする。なんなんだろうなぁこれ。

2005年に書かれた作品がこのタイミングで上演され、その主役が高橋一生であること。この巡りあわせに特別な意味があるだなんて思わないけど、でもこのぐちゃぐちゃな感情を含めこの作品を観たことはわたしの心にずっとずっと残るだろう。


この物語の世界観を構築する最たるものとして『バタフライ』というものがある。それによって例えばケネディ大統領が暗殺される瞬間隣に座り血と脳漿を浴び全身ドロドロになるという疑似体験のようなものができ、それは「暗殺幻想」という効果によるもので、いくつかの種類(デザイン)がありそれぞれ効果が違うってんで最初はまんまドラッグだと思ってたんだけど、あるとき突然天変地異のようなものが起きどこかから大量の白い砂とともにそれは降ってきたというんですよね。蝶という生物として。さらに暴動なのか戦争なのかあるいは両方なのかわかりませんが、兄弟の住む世界が“攻撃”された時、これまた白い砂とともに繭の形で降ってきたという。で、バタフライの使用を続けると人は「だんだんと」なのか「どんどんと」なのかはわかりませんが、確実に記憶を失っていくと。劇中、錯乱気味の弟を落ち着かせるべく兄がバタフライを与えるシーンがあるんだけど、一生くんは瀬戸くんの舌にまんま「蝶」を乗せ、瀬戸くんは一生くんがくれた「蝶」をしばらく舌の上に乗せたあと、まるごとごくんと呑みこむんだよね。そしてご機嫌になる。

ヘロヘロしながら兄に抱きつき、兄をすっぽり呑みこんでしまうかのごとく、兄に呑みこまれてしまいたいと願うかのごとく兄の腰にしがみつき甘える弟。
でも最近では死にたいと思った記憶を蘇らせ、ロープがなくとも首をくくれるし銃がなくとも脳ミソを吹っ飛ばせる、それを“バタフライがやってくれる”という「自殺願望」を効果とするバタフライが“現れた”というのです。

『バタフライ』ってなんなんだろう?。暴力と同時に降ってきた・・・・・・快楽、と解釈していいのだろうか。とすればそれはどんな『目的』で『誰』によって齎された快楽なのか。

偶然パーティ会場に現れ、“バタフライマン”であるエリオットを見知っていたという縁でパーティへの参加を希望する水田くん演じるナズという若者は、明らかに知能に問題がありそうな瀬戸くん演じるダレンとは違い、ヘラヘラふわふわしてはいるもののまぁ人懐っこくてお調子者の単なる若者、のように見える。でもナズはダレンと二人でパーティの準備をしてる最中に突如思いだすのです。買い物に出かけたスーパーで顔を黒く塗った奴らに母親が首を斬られて殺され頭を踏みつぶされた妹が蹂躙され他の客もみんな殺される中、棚に隠れてそれを見ていたという記憶を。

そんな記憶なら失くしたほうが幸せなのかもしれない。辛い記憶のみならず楽しい記憶も忘れてしまうバタフライだけど、たぶん彼らが生きる世界では楽しい記憶よりも辛い記憶のほうがはるかに多いんじゃないかな。だから人々はバタフライを求めるのではないか。現にそんな記憶を思いだした瞬間は混乱する様子をみせたナズだけど、そのあとは何をするのか薄々気づいていながらもパーティに参加し続ける。たぶんバタフライ欲しさに。



一生くん演じるエリオットはそのバタフライの売人なんだけど、ふわふわヘラヘラしてるダレンやナズとは違って2時間半弱の間中ずっと怒鳴ってた。ダレンに対しナズに対し、自分と弟がおかれている状況に対し、段取り通りにいかないパーティの準備に対し、くそったれな世界に対し、そしてなにより自分自身に対しずっとずっと怒ってた。怒りながら頭の中にある“知識”であり“記憶”を語る。それがエリオットの個性なのかと思いきや、エリオットはバタフライを1度しかやったことがないと言う。そこでバタフライをやらないエリオットは幼い頃から今現在までの知識であり記憶でありを持ち続けていることがわかる。つまり「正気」だということが。
じゃあなぜエリオットはバタフライをやらないのか。売人やってるぐらいだから手元にはいくらでもあるだろうに。


いくつかの「そんなはずじゃなかったのに」「そんなつもりじゃなかったのに」が積み重なっていつの時点からか“いつものパーティ”は“いつもとは違うパーティ”に変わっていく。

その中でパーティの主催者であるスピンクスによって、エリオットの過去が暴かれる。
その過去とは、エリオットとダレンは父親の暴力によって足を砕かれ頭蓋骨に穴をあけられ母親とともに病院に入院していたが、これまた暴動なのか戦争なのか、暴力が街を襲いそれは病院にも押し寄せ、その時エリオットは同室の弟を連れず母も連れず、一人で逃げたというもの。スピンクスの言葉を必死で止めようとするエリオットの様子からして、エリオットはそのことをダレンに知られたくはなかったのだろう。だから弟にバタフライを与えたのかもしれないし、バタフライをやらずとも弟はそれを覚えていないかもしれない。

でもエリオットにはその記憶がある。その記憶を失くさないために、エリオットはバタフライをやらないのではないかな。
だとしたら、どんな気持ちでバタフライを売っていたのだろうか。どんな想いでこの世界を正気のままで生き続けてきたのだろうか。

エリオットの過去を暴いたスピンクスは誰のおかげで今があると思っているんだとエリオットに強く問う。血塗れの病院に2度も戻り二人を助けたのは誰だと、お前らに住む場所と仕事を与え庇護してやっているのは誰だと問う。スピンクスの命令に従うと決意した兄は、弟に指示を出す。死んでしまったパーティプレゼントの代わりにナズをパーティプレゼントにするための指示を。

パーティゲストを喜ばせるために、パーティゲストを満足させるために、なにがなんでもパーティプレゼントを殺させなければならない。
なぜならもうすぐ爆弾が大量に落とされ辺り一面何もなくなってしまうから。彼らは、というかボスであるスピンクスはいつ爆弾が落とされるのか、どうやってそれから逃れればいいのか、その情報を得るために今回のパーティを開いたから。

パーティゲストが金と、それから命に関わる情報を餌に望んだ“ベトナムで生き残ったのは自分と部下二人だけ。裏切りものを吐かせるべく捕えた子供エルビス(パーティゲスト)を拷問し嬲り殺しにする”という設定での殺人を撮影する(後からそれをみて愉しむ)という卑劣な「パーティ」を行わなければならない。なんとしても。
爆撃が3日続き辺り一面焼け野原になりそのあと兵士がやってきて女達がどんな目に遭わされるのか、それを“知ってる”けど多分スピンクス(たち)は自分たち以外の人間を助けようとはしないだろう。自分たちが助かるためにパーティプレゼントという“他人”の命をパーティゲストに差し出すことになんの躊躇いも覚えない。パーティプレゼントにだって大切な誰かがいるだろうに。誰かにとっての大切な人かもしれないのに。彼らはそういう世界で生きている。
そしてパーティゲストによってパーティプレゼントが切り刻まれ血塗れになり叫び声をあげるなかでは兄の過去なんてどうだっていい。スピンクスが姫と呼ぶ盲目で精神が不安定に見える中年女がエリオットとダレンの母親であるという事実すらどうだっていいのです。

でもパーティプレゼントは拉致してきた見ず知らずの少年ではなくさっきまで一緒に準備をし酒を飲んでたナズである。ダレンとお互いの心臓に手をあて「バッコンバッコン」感じあったナズなのだ。
泣き叫び喚きながら助命を請い抵抗するパーティプレゼント、いやナズを殺すことに耐えられず、ナズの“親友”であるダレンが殺人用の部屋から飛び出してくる。

続いて出てきた返り血を浴びたツナギにガスマスクを着けたエリオットを見て悲鳴を上げるローラ。
スピンクスの妹でありエリオットの恋人であるローラはパーティプレゼントの衣装とメイクを担当するもののパーティには絶対に参加しないはずだったのに、ナズを探しにパーティ会場へ戻ってきてしまったのだ。

スピンクス一人では抑えきれず、身体を切り刻まれ血塗れになったナズが部屋から転がり出てくる。遠くからは姫がスピンクスを呼ぶ「パパぁ〜」というキチガイ染みた叫びが聞こえる中、ナズを殺すべく追って出てきたパーティゲストを、ダレンはナズが引き出しに仕舞った友情の証しである銃を取り出し撃ち殺してしまう。せっかく準備したパーティが台無しになってしまう。もちろん空爆の情報は得られない。

でもナズはなんとか生きている。血塗れで息も絶え絶えだけど生きている。必死で救命作業をするエリオット。皆殺しにしてやると銃を拾いエリオットに向けるスピンクス。叫びながらスピンクスを止めようとするダレンとローラ。怒鳴り叫びナイフを振り回すスピンクス。食らいつくダレンとローラ。スピンクスを呼ぶ姫の叫び声は止まらない。血塗れのナズを抱え泣きながら「姫のところへ行ってやってくれ」とスピンクスに頼むエリオット。
なんなんだろうこれは。なんなんだろうこの地獄は。

エリオットの頼みを聞き入れ姫を連れて戻ったスピンクスはローラとナズとともに部屋を出て行く。何も知らない何も変わらないお姫さまに階下にある庭園で花火を見ようという嘘をつきながら。
パーティ会場に残った兄弟は呆然と力なく、でもいつものように後片付けに取りかかる。パーティゲストの死体を奥の部屋に運びガソリンを撒いて火をつける。
そんな中ダレンは唐突に思いだす。兄と宇宙飛行士について話したことを。そして宇宙のどこかにはもっと生き易い、あったかくて優しい星があるはずだと言う。殺人の後始末をしながら。

そこへ何やら音が聞こえてくる。窓の外が明るくなる。
パーティゲストによれば早まるかもしれないけれど予定では明日の夜だと言っていた空爆が始まってしまったのだ。

ということは、パーティが滞りなく行われていたとしても、結局“間に合わない”ってこと・・・なのか?。それどころか自分は逃げるつもりで最後の思い出作りとしてパーティを開いてもらったパーティゲストも空爆に巻き込まれてたってことなのか?。それとも爆撃が行われるのは実は明日ではなく今日で、パーティゲストはパーティの後さっさと逃げ出す算段を整えていて、爆撃によって自分がパーティに参加した=殺人を犯した証拠をすべて消しさってしまうつもりでいた、つまりスピンクスは騙されていた・・・ということなのか?。
そこいらへんの真相はパーティゲストが死んでしまった今確認のしようがないし、爆撃が始まってしまったという事実の前では真相がどうあれ現状が変わるわけではない。
でもこうなってみるとわたしが見せられていたこの狂乱はなんだったのだろうかと、兄弟がやってたことは一体なんの意味があったのだろうかと思ってしまう。
どう足掻いても待っているのは地獄でしかない、兄弟の人生ってなんなんだろう・・・って。


パーティの準備中、エリオットはローラにこう言いました。
「いつかダレンやローラが理不尽な暴力で傷つけられてしまうかもしれない」と。
「それならばいっそ自分の手で殺してしまったほうがと考えると安心するんだ」と。


爆音が響く中、弟の頭蓋に銃をつきつける兄。
兄に銃を向けられながらさっきまでのふわふわした口調ではなくしっかりとした力強い口調で「ものすごく愛してる」と言う弟。
何度も何度も「ものすごく愛してる」と、「ものすごく愛してると言ってくれ」と言いながら、銃を握った兄の手を下ろそうとする弟。
それは父親が兄弟に暴力を振るう際、兄弟に言い聞かせていたのであろう言葉。
何度も何度もそういう弟に対し、泣きながら歯を食いしばりそれでも銃口を下げようとしない兄。
何度下ろされても弟に銃口を突きつける兄。
声にならない叫びをあげながら弟に銃を向ける兄に対し、俺達だったらきっと生きていけると訴える弟。
結局兄が引き金を引いたのかどうかわからないまま幕が下りる。


この最後のシーン、声を出さずに感情を爆発させる一生くんがすごかった。無言でありながらも慟哭し必死で葛藤する一生くんの痛々しさに震えがとまらなかった。
わたしはなんというものを観に来てしまったのだろうかと思いながら、でも目どころか全身の毛孔かっぴらいてこの一生くん演じるエリオットを目に焼き付けるのに必死でした。

エリオットは引き金を引いたのかなぁ?。

エリオットはバタフライをやらない理由を「父親にやるなと言われたから」と言うんですよね。そしてダレンは家族で仲良くサウンドオブミュージックの映画を観たことを覚えてる。楽しかった記憶の中に父親がいて母親がいて、そして兄がいるんですよね。
もしかしたら、父親はほんとうに家族を「愛してる」から、愛してるからこそ殴らずにはいられなかったんじゃないかなぁ。バタフライをやることで正気ではなくなることを知っていて、正気を失ってまで生きる意味なんてないと思ってて、でも正気のまま生き続けるにはこの世は地獄すぎて、だからそんな世界から解放してやりたくて大切なひとたちを殺そうとしたのかも。

そう考えると、ダレンとローラ、その時が来たら愛するひとを殺してやるために、そのための力を持ち続けるために、エリオットはこの世界で正気で在りつづけたのではないかという気がしてくる。
それは正気のまんまこの地獄を生きてきたエリオットにとって、希望・・・・・・とは違うかなぁ?生きるよすがみたいなものだったのではないか、と。
だとしたら、たとえこの空爆から逃れることが出来たとしても、これまでよりももっと酷い地獄しかない(としか思えない)なかでこれからも弟とともに生き続けようと思えるだろうか。

弟が言うように宇宙のどこかに一つぐらいはきっとやさしくてあったかい星があるんだとすれば、それはこの世ではない、現実ではないところにある・・・と思っても無理はないのではないか。
だからエリオットが望むなら、それがエリオットにとってたった1つの希望ならば、エリオットに引き金を引かせてあげたいと思ってしまうわたしがいます。もうお兄ちゃん頑張らなくっていいんだよって。

でもこのラストシーンで兄弟の立場が逆転するんですよね。それまでずっと兄が弟を庇い宥め守っていたのに、最後の瞬間は弟が兄を宥め守ろうとしていた。

それまでふわふわとラリっているようだった口調がはっきりしっかりとしたものになり、真正面から兄を見据え「俺達なら生きていける」と言い切る弟は強さを感じさせた。
それからそこに僕を殺したらエルは苦しむだろうと、続いて自分も死ぬつもりにせよ、僕を殺した瞬間からエルは死ぬより辛い苦しみを得るのだろうと、そんな想いをエルにさせたくないと、そんな想いがあったんじゃないかな。


劇中幾度か出てくる「ものすごく愛してる」という言葉。
兄にとっては「ものすごく愛してる。だから殺すんだ」という意味であり、
弟にとっては「ものすごく愛してる。だから生きるんだ」という意思だったんじゃないかな。
そこまでは辿りつくんだけど、そこから先は結局どっちなのかわからなかった。
二人の演技が理由なのかわたしの精神状態が理由なのかわからないけど、引き金を引いたと思える回もあれば引けなかったと思う回もあった。
でもどちらにしても救いであり希望だと思う。そう思いたい。



爆撃音とともに闇に包まれる中、時間にしたら1分もないのかなぁ?そこで二人は舞台を下りて客席通路に座るんですよね。で、そこから舞台に上がってカーテンコールとなるんだけど、わたしのすぐ隣に一生くんが座ったんです。
一瞬前まで声なき慟哭をしてた一生くんなのに、隣にいるはずの一生くんは『無』だった。まるで存在感がないの。すぐそこにいるはずなのにいないの。この時一生くんはどんな気持ちなんだろう。この時間は一生くんにとってどんな時間なのだろうか。

トリプルカテコでようやく一生くんがほんのちょっと笑ってくれたりすることがあったんだけど、その瞬間ものすごく安堵すると同時に胸が痛くてたまらなかった。こんな時間を毎日毎日生きている一生くんが心配になってしまうのだけれど(いや一生くんだけでなくキャスト全員に対して思う)、でも一生くんはそういうの「余計なお世話」だと思っちゃうんですって。そういう余計な感情は不要だと、舞台の上で起きていることだけを見て感じてくれればいいんですって。ポストトークでそう話す一生くんを見て、この人はつくづく役者なんだなと、役者としてしか生きられない人なんだなとおもった。
(2公演の日は特にモチベーションを保つのがすごく難しいと瀬戸くんが話した直後に「僕は難しいとかそういう裏側の事情を言うのは好きじゃないんで」とバッサリ言い切り、隣で思わず「すいません」と言うしかなかった瀬戸くんに「・・・・・・あっ!違う違うそういうことじゃなくって!」と慌てて必死フォローする一生くんに悶えまくりながらですけどね・・・w)
(てかポストトークは終演後10分の休憩をはさんで行われたんだけど、血塗れの二人は着替えが間に合わず白井さんと司会の人だけで始まったのね。で、白井さんたちの位置からだと一生くんたちが出てくる扉が見えなくて、だから入るタイミングがわからない二人は扉から顔をひょこひょこ出して様子伺ってんのが超絶かわいかったのー!)
(そして濃紺のグレンチェックのセットアップ(パンツは細身でくるぶしが見える丈)でインナーは真っ白のローゲージタートル、足元はコンバースの黒ハイカットという二次元でしかありえないだろうというスタイリングをサラっと着こなす瀬戸様の瀬戸様っぷりといったら・・・)


そしてこの過酷で残酷な世界を生きる兄弟を見目麗しい俳優に演じさせるだなんて、白井さんと萬斎さんってつくづく恐ろしい人だなと。だってこんなにも酷い物語なのに、それでもやっぱり彼らは美しいんだもの。美しいと感じさせるのだもの。
一番始めにこんな作品だなんて思ってなかったと書きましたが、多分会場を埋めた女性客のほとんどがそうだったと思うの。平日はいかにも演劇好きっぽい人も多く見受けられましたが、前楽・千秋楽は完全にキャスト目当て、もっと言ってしまえば瀬戸&水田目当ての女性客だったと思う。そんな客にとって、この凄惨な物語であり役柄は完全に「予想外」だったと思うのね。というかそんなものを求めてたわけじゃなかったと思うの。でも観終えて後悔したり不満を抱いたりした人はいなかったんじゃないかな。気分が悪くなったとしても、それでもダレンを演じる瀬戸くんを、ナズを演じる水田くんを「観なきゃよかった」と思った人は皆無だと思う。それどころかむしろこの瀬戸くんを観ることが出来て良かったと、水田くんのおかげでこの作品を観ることが出来て良かったと思ったんじゃないかな。そしてきっと「カッコよかった」だけじゃない、それ以外の何かを感じたんじゃないかなと思うんです。少なくともわたしはそう。

その感じた「何か」。この「何か」こそが演劇なんだと思う。
仮面ライダーであり王子様であった彼らを通して演劇を見せる。そしてこんな物語であっても、いや、こんな物語だからこそ、彼らの持つ清らかで純粋な美しさが光るのだと。



わたし観劇したものの感想って1.2時間ぐらいで一気に書いちゃうことが多いのですが、この作品はマイ初日の夜から千秋楽を観終った今まで毎日毎日ちょっとずつ書いたり消したりし続けて、ようやく自分なりにまとめることができました。ほんとどっぷりと・・・というわけではないものの、毎日ずっと頭の片すみで考え続けてた。でもまだ考え足りない。スピンクスの孤独やローラの強さを、半海さんが「フツウの変態」だというパーティゲストの欲望と無力の象徴のようなパーティプレゼントのことを、きらびやかな格好をしながらも排泄物にまみれるお姫さまのことを、そして白井さんが抱えているであろう怒りを、まだまだ考えてしまう。まだまだわたしの中に在りつづけてる。
ただの観客でしかないわたしですらこれだけ影響を受けてしまうとなると、やっぱりどうしても役者のメンタルが心配になってしまうよなぁ・・・。余計なお世話なんだけど!。
残る地方公演。どうかどうか精一杯頑張ってくださいと祈るばかりです。