いのうえシェイクスピア『鉈切り丸』@東急シアターオーブ

所持チケット半分を見終わったところでのとりあえず感想になりますが、以下、内容に触れてます↓↓↓






初日に見て、今週もう1度見たんだけど、好きか嫌いか?と聞かれたら「嫌いじゃない」と答える。そんな感じかなぁ・・・。
キャスティングが発表になった時はすごく興奮したし期待もしたんだけど、なんだろう・・・なんか・・・思ってたのと違うというかなんというか、うーん・・・こじんまりまとまりすぎてる感じ?。

リチャード三世を源平合戦に置き換え、リチャード(三世)を投影する人物として頼朝の弟であり義経の兄として「範頼」という人物を配置するという趣向で、これは思った以上に嵌ってるというか、本家リチャード三世よりもずっと解りやすく、見知った舞台であり名前になるとこうも頭に入ってくるのかーと驚いたもののそれ以上の『何か』が私には感じとれないかなーと。

リチャード三世を投影しているわけですからこの物語の主人公である「源範頼」はせむしでかたわで顔にも醜い痣があり、それゆえに兄や弟や世の中を憎んでいると、そこは理解できるんだけど、そのことと政子に引き立てられた大江広元が書く吾妻鏡との繋がりがイマイチしっくりこない気がするんだよな。朧がリチャード三世を下敷きにオリジナルの物語を作ったとするならば鉈切り丸はリチャード三世を和風にアレンジした感じだと思うのだけど、ただのアレンジで終わってない理由がこの“吾妻鏡=歴史は何度でも書き換えられる”という作中での概念なんですよね。

構図は分かるんだ。源範頼という人物が後世(現代)では全く存在していない理由、史実を元にした物語の中で主人公が現代に生きる観客にとって「架空」の存在である理由、この大江広元が書く吾妻鏡というアイテムでもってそれを説明してるのは上手いと思ったんですよ。見事。企みが暴かれ今まで言葉巧みに死へ誘ってきた人々に追われるようにして、裏切った(・・・というよりも頼朝の想いを知って目を覚ましたというべきか)梶原景時によって斬られながら範頼は自分がしてきたことが、自分が生きた時間が、吾妻鏡を書き換えられることで「なかったこと」にされることを知るのね。なかったことにされるどころか「源氏に醜い人間は相応しくないから」と、せむしでかたわで顔には痣があるという自分の特徴を書き換えられてしまうのです。それゆえにこういう生き方をするしかなかった範頼にとって、それは存在を否定されるに等しい、いやそれ以上の屈辱だよね。

範頼はそんな屈辱にまみれながら無様に斬殺され、景時の家来によって乱暴に運ばれ、次の瞬間何事もなかったかのようにカーテンコールとなるわけで、それがまさに吾妻鏡を書き換えられたことで一瞬にして生きた時間をなかったことにされてしまった範頼そのものと言った感じでこれは本当に上手いと、考えたなーと思ったわけです。

でもなんか違うの。その上手さが作劇上の「からくり」というか「トリック」というか、そこで終わってしまってるのは違うと思うんだよな。
リチャード三世と言えば『馬を! 馬をよこせ! 代わりに我が王国をくれてやる!』なんだけど、この作品ではそれが「鳶よ・・・その羽根を俺にくれ」と言う台詞になってるんですよね。劇中で範頼はなんども上空を飛んでいる鳶に俺を見ていろと、そう語りかけるんだけど、それはせむしでかたわであるがゆえに真っ直ぐ空(上)を見上げることができない範頼の誰にも言えない『本音』だったと思うの。俺は上に行くよと、鳶に語りかけつつも範頼は実は己にそう言い聞かせてたんだと思うのね。そこで言う「上」ってのは征夷大将軍の座のことなんだけど、範頼はそのつもりで鳶に語っていたと思うのだけど、でも本当はそうではなかった、ということだと思うんだよな。この作品では生霊(なのか?)となった健礼門院の口から死者は大地に還るという言葉が出るわけで、死の淵で大地に還りたくないと、鳶の羽根で空高く飛んでいきたいと、そう願った範頼は醜い姿で大地に還るのが嫌だったんじゃないかなーと、そう思えてならないんですよね。せむしでかたわで醜い顔の範頼ではなく、いや鉈切り丸としてではなく、何者でもない鳶として空へと飛んでいきたいと、それが範頼の願いだったと、わたしにはそう思えるんです。
だったら、吾妻鏡からせむしでかたわで醜い顔の源範頼が消えるってのはむしろ本望なんじゃないのかなぁと。範頼の死体を河原に捨て置き鳶(鳥)に食わせろという景時の言葉はせめてもの情けというか、一時でも殿と呼んだ(呼ぼうとした)範頼への精一杯の・・・敬意?だと思うし。そこがどうしてもしっくりこないんですよね。

・・・と、まるで滝沢秀明のように降りしきる雨の中ジャバジャバと水しぶきをあげ敵を斬りまくるズタボロの森田剛を見ながら、最後には水の中にドウッと倒れる森田剛に半泣きしながら、そう考えてしまいます。
でもこの脚本が描いているのはそういうことではないんだろうなーという感じはあるの。
まだあと数回分のチケットが手元にあるのですが、最終的にこの感じがどう変わるか。・・・変わるかなぁ?。



森田剛はさすがの役者っぷりでございます。剛くんの捨てられたワンコ感がズバリはまったIZOとはまた違う見るのが辛い感ですが、常に腰を曲げ片足を引きずりながら自分の言葉に乗せられ殺し殺される人間どもを冷酷な目で見つめ、いざ自分が動くとなると残忍な笑みを浮かべながら動かない足を軸にそのハンデをもろともしない素早い身のこなしで斬りまくり、そして女を犯します。自分の子供を身ごもった女の腹を蹴り口を吸いながら舌を喰いちぎります。これだけのことを求められる(要求できる)ジャニーズはこの人以外にいません。こんな森田剛を見ることができることが震えるほど誇らしい。

モッティーこと圭哉は美味しいw。おそらく圭哉が今回の宴会部長だと思うのですが、有起哉の扱いがアレだったことを思うとクッソ圭哉うらやましいクッソクッソ!とおもいますw。

そして若村真由美様。若村真由美様の北条政子ガチすぎる!!!!!。この舞台上で最も男前なのは若村様の政子です。異論は認めません!!。