『リーガル・ハイ』第9話

時々「舞台のようなつくり」と表現されるドラマがあるけど、今回の古美門演説→足を踏み鳴らす老人達はまさに「舞台」の空気感だった。
テレビドラマってご飯食べながらとかお皿洗いながらとか、“ながら見”ができるわけで(むしろそういう人のほうが多いよね)、だからよくも悪くも真剣に見ずとも理解できる作りであることが多いんだけど、古美門のあの演説は誰もが手を止め画面を食い入るようにして目や耳のみならず全身でその演技を受け止めたと思う。それぐらいしなけりゃ受け止められない熱量で、まさに圧巻という以外にない。
これまでは脚本の巧さに感動することが多かったんだけど、今回は堺雅人という役者の力量が全てだったと思う。あれだけのセリフ量を一度も「え?今なんつった?」って思わせることなく一語一句聞かせ、それと徐々に迸る激情をこのレベルで両立させられる役者はちょっといないんじゃないかなぁ。脚本家の中島かずきさんがついったーで「堺くんの底力に震えた」と書かれてますが(そしてそれに「同意」する池田成志さん)、ほんとその通り。なんだか分からない興奮と感動でほんと震えた。小手先の技術じゃなくこれまで堺雅人という俳優が培ってきたものがこのシーンに凝縮されてたと思う。
そして堺雅人ならばこれぐらい出来るだろうとも思うわけで!。
そんでもっての改めての宣戦布告とばかりに汚染水グイグイ飲む古美門ね。老人たちにとってあれはどんな言葉よりも雄弁だったと思う。
でさ、古美門の思惑がなんであれ、今回ここまで“本気”で演説しちゃったのはやっぱり前回の父親とのことが影響してると思うんだよね。これまで勝てる仕事しか引き受けてこなかった古美門が「絆」やら「誠意」やら耳障りのいい言葉を理由に和解を受け入れようとしてる老人達を、たとえそれが三木の敷いたレールであると分かっていてもそれでいいのかと古美門自ら『負けるかもしれない』戦争に引きずり込んだのは、父親と戦ったことで古美門の中で何かが変わったか、決まったか、そういうことなんじゃないかなーと思う。これまでの積み重ねが堺雅人に古美門研介としてあの演説を可能にしたように、古美門研介もまたこれまでの(黛が来てからの)あれこれがあるが故にあの演説ができた、ってことなんじゃないかなと。作りとしては手触りや後味が違う1話完結ドラマでありながら、三木とのメインイベントに向けて着々と足固めしてたってことなんだよなーと。
この演説って演技のみならず言ってることも結構ギリギリってか挑戦的だよね。現実のあれこれ・・・もうはっきり言っちゃうと原発を想起させることもあるけど、それよりなにより『絆』だよ。ここディスってきたかと!。
同じ米を食って同じ水を飲めないやつらとの間に絆なんてあるわけねーだろ!と震災以来ありとあらゆるところで大変便利に使われてる『絆』を盛大に斬って捨てたのは凄かったわー。そしてその直後に一人本気で戦うつもりでいた村長の奥さんのタネさんだっけ?の死を知り足踏み鳴らしながら土着ソング?をタネさんに捧げるかのように一心不乱に歌う村人たちの姿を見せる。これ気持ち悪いじゃん。村の人以外誰も入れないじゃん。でも本来「絆」ってのはこれぐらい他者は理解できない結びつきだと思うんだよね。
これもね、この演説が“視聴者に”受け入れられたのって“今の古美門だから”だと思う。例えばさ、これ同じことを杉下右京が言ったとしたら、もっとこう・・・重苦しい感じになると思うんだよね。間違いなくスカっとはしないと思う。これまで古美門研介という弁護士のやり方を、古美門研介という男を、じっくりみっちり丁寧に執拗に見せてきたからこそ、正論ってキツいよなーと思いながらもこのギリギリの演説を爽快感とともに受け入れられるのだと思う。つくづくすごいドラマです。
だってさー、この演説やった男が、老人達に幾ら取れる?と聞かれ「好きな金額を言えばいい。私が取ってごらんに入れよう」と超絶カッコよく豪語した男が、ハニートラップだとわかっていながら破った連絡先必死で拾い集めたうえに座ってた椅子クンカクンカすんだぜ?ぺったんこー!じゃねーよバカ!(笑)。