- 作者: 中村文則
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2009/03/05
- メディア: 単行本
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以下は、この物語の主題ではありませんが、死刑及び裁判員制度について私が常々考えていることを言い表してくれていたので引用します。
「・・・・・・死刑は程度の性質を帯びてしまうから、遺族格差も出てくるんだ。・・・・・・自分の娘が殺されて、その犯人が無期懲役だったとするだろ。でもなんであの犯人は死刑なのに、自分の娘を殺した犯人は死刑じゃないのかと思うのが普通だよ。たとえばもっと世間が騒いでくれたら、あと半年、犯人が歳を取っていたら死刑だったのに、となるだろう。その犯人がその娘以外にも複数殺していたら、死刑ということにもなる。一人一人の遺族感情を本当に考えるのなら、これは奇妙だよ。遺族のために死刑があるとしても、死刑は元々、全ての遺族に対して平等に機能するものじゃないんだ。
中略
どういう状況なら死刑で、どこまでの状況なら死刑じゃないのか・・・・・・死刑というのは、確実なものにならない。ここからが死刑、ここからは死刑じゃない、という線が曖昧で、時と場所によって、変わってしまう。無理やりどこかで線を引いたとしても、その引いた線が、絶対に正しいものになることはない。
以下略」
死刑に関わらず、罪を犯した人に量刑を科すという行為・判断はとても難しいものなのだと思います。そして正解もないのだと。だからこそ陪審員という制度が必要なのだ、という考え方があるのは分かります。実際に始まってみなければそれがどういうことになるのか、陪審員達の判断がどの程度反映されるのか、その意見がどれほどの意味を持つのか分かりませんが、引用の中にあるように明確な線引きがあるわけではないわけで、どこまで考慮されての人選なのかこれもまた分かりませんが、例えば強姦殺人の裁判に参加する陪審員の中に友人・知人が強姦の被害にあっている人がいたとしたらきっとその人は出来るだけ重い刑を主張するでしょう。そしてそれに同調する人が少なからずいるのではないかと思う。でも逆にそういう人がいなければ、刑の重さは全然違うものになる・・・かもしれない。これまで資格を持ついわゆる専門家が冷静に、そして公平に決めてきたのであろう量刑ですらその線引きは曖昧であるのに、そこにいわゆる一般の人の意見を取り入れたらますます運というか、不安定な何かに左右されてしまうのではないか・・・と思うのです。そして法制度側は、例え量刑の重さに疑問の声が上がろうとも陪審員=民意によるものだということにするのではないかと。どうなるんだろうな・・・ほんと。