『いだてん~東京オリムピック噺~』第22回「ヴィーナスの誕生」

まさかドラマオリジナルでわざわざそんな呼ばせ方をしないと思うので実際がそうだったのでしょうが(ググったらやっぱり史実だそう)、なぜ学校の先生を「パパ」と呼ぶのだろうか。せっかく主義主張、その勇ましくて潔い心意気がべらぼうに格好いいというのに「パパ」呼びでわりと台無しに感じちゃうんだけど(若い女優たちに「パパ」と呼ばれる中村勘九郎なんてものを拝めることは大層ありがたいのだがそれはまた別の話)。実の父(なぜ板尾さん・・・)が娘のパパ呼びに反応してたということは教師をパパと呼ぶことが「当たり前」のことではないからだと思うけど、なぜに「パパ」?ってところが引っかかる。槍投げを経験し、スポーツの面白さと開放感に目覚めた女学生たちがそれを教えてくれた金栗先生に心を開くどころか美脚をベタベタ触るまで馴染んでることは、それだけ「女」がいろんなものにより抑圧されていたことの反動であろうことも含め素敵なこと、素敵な関係性だと思うんだけど、「パパ」はどっから出てきたよ?と。

それはさておき、「女が靴下を脱いで素足を出すことのなにがわるいのか。悪いというなら男が目隠しすればいい」という四三の啖呵?は実に痛快でありながら、現代でもそのまんま通じる、通じてしまうことになんとも言えない気持ちになるし、女性が「そうなりたい」「そうしたい」と思って行動したらアイドル扱いされてしまうことも、さらにシマの妊娠も今も変わらず女性アスリートがぶつかる壁というか抱える問題というか、そういうものであろうわけで、そしてそれはアスリートに限ったことでなく働く女性にもあてはまることなわけで、大河ドラマでここまでの「現代性」を感じることってわたしのさほど長くはない大河ドラマ視聴歴のなかではなかったように思う。
スヤさん、シマ先生、村田さん、それからトクヨさんという女たちの「(今その瞬間を生きている)生き様」を“主人公に関わる女”としてのラインは保ちつつも一歩踏み込んだところで描きつつ、そこからの女学生たちの立てこもり(これには胸と涙腺を熱くせずにはいられない!)、そしてこの引き、からの次回は関東大震災だとか、宮藤官九郎という作者の『凄み』が滲み出る神回であった。OP前の落語パートを除いてな(でもこうやってOP前にまとめてくれたほうがありがたい)。


女学生が外国のテニス選手にあこがれて見様見真似でテニスウェアを作ると(相談に来た女学生に「忙しいから自分たちで作れ、ミシンは勝手に使っていいから」と言うの、これ三宅さんでよかったなーって心底思った。商売道具を学生に扱わせる背景には当然「金栗四三の教え子」だからという理由があるのでしょうが、このいい意味での「軽さ」は三宅さんならではだろう)光速でその本物?を仕入れてディスプレイしてアピールする増野さん剛腕すぎんだろw。

菅原小春さんの人見絹枝さんの「コイツ、ただもんじゃないッ!」オーラはんぱねえ。キレッキレじゃねーか。

そして美川くんはどこまで堕ちるの・・・・・・・・・。これでまだ「どん底」な感じがしないところがまた・・・・・・・・・。