『レ・ミゼラブル』@帝国劇場

相葉裕樹さんがアンジョルラス役で出演するということで前回(2017年)公演で遅ればせながらわたしもレミゼの扉を開いてしまったわけですが、ほんの少しは作品に対する理解度が上がったせいか前回よりもあっという間に終わってしまった感が強いです。前回はとにかく相葉アンジョルラスを観ることに必死で、相葉アンジョルラスしか見えてませんでしたが、今回はあっちでもこっちでも泣いた。
自分の目で観るまでは全く想像がつかなかった濱田めぐみさんのファンテーヌで頭は真っ白(なにも考えられずただ観ているだけ)なのに涙はとめどなく流れるという経験をし、昆夏美さんのエポニーヌ、特に千秋楽での集大成と言わんばかりの渾身の「On MY Own」には圧倒されてボロ泣きしながら拳を握り(ここ思いっきりエポニーヌに共感してるんで)、そして吉原光夫さんの帝国劇場をまるごと飲み込むようなジャンバルジャンの迫力に、まるごと包み込むほどの大きな大きな愛に、毎回震えるほどの感動を貰いました。
曲、物語のすばらしさは言わずもがなですが、この作品のプリンシパルはそれぞれトリプルなんしクワトロキャストでして、同じ曲を歌っていても演じる役者によって結構違うんですよね。細かい演出からざっくりとしたアプローチの方向性(はあくまでもわたしの印象ですが)まで演じるひとによって違ってて、前回よりもそういったところに気づけた(と自分では思う)ぶん、舞台上で見えなかった(見ていなかった)ところが見える瞬間があったりして前回よりもより深くこの作品を楽しめたし、となると全キャスト制覇したくなるもんで(今回わたしは上原理生くんジャベールだけ観ることが叶いませんでした)、となるとももっともっと観たい!となるもんで、大げさでなく生きている限り見続けたいと思うわけで、わたしはなんという世界に足を踏み入れてしまったのだろうかと震える次第。


それもこれもすべて相葉裕樹さんのアンジョルラスが素敵すぎるからなのですが、アンジョルラスについてはあとでたんまり語るとして、まずは流れに沿って印象に残ったことをつらつらと。


『Prologue』はもう吉原光夫劇場ですわ。とにかく迫力がはんぱない。粗暴という表現が適切かどうかわかりませんが、パンをひとつ盗んだ罪で19年間牢獄に繋がれていた怒りと憎しみを具現化したらまさにこんな男になるだろうという感じで、「逃~げ~た~あああああああああ!」は何度聴いてもキタアアアアアアアアア!!となる。ここが一番「今わたしレミゼを観てる!!」と感じる瞬間。
プロローグの荒々しさがあるからこそ生まれ変わり市長となった姿にギャップがあるというか、どれほどの強い決意を持てばあの男がこれ(これ言うなw)になるのかと思ってしまう。
その点、今回が初参加となる佐藤隆紀さんのバルジャンはプロローグが弱いというか、どれだけ荒れていてもどこか人の良さを感じさせるもんで、なるべくしてなったじゃないけど市長になっても不思議じゃないな感があって、その違いは面白い。
シュガーさんのバルジャンは5月の中旬ごろに1回しか観ることができず、その時喉の調子が(わたしが知るシュガーさん比として)あまりよくないのかなと思ったこともあり、光夫さんや福井さんと比べると1幕のパワーがやや欠けるかなという印象でしたが、きっとこれからバルジャンを長く演じ続けるのではないかと思うので、シュガーさんのバルジャンがここからどう変わっていくのか、それをずっと見続けられるかと思うと生きる楽しみが出来ました(大げさでなくほんとそんな感じ。何十年もレミゼを見続けている人たちはこういう気持ちなんだろうなと)。


ところでわたしこれまでファンテーヌという役に何か思うことってなかったんです。愚かな女だなーぐらいは思ってたけどわたしにとってはその程度の存在でしかなくって、なんなら「気づいたら天に召されてた」ぐらいの感じだったりしたのだけれど(酷い客で申し訳ない)、今回濱田めぐみさんのファンテーヌを観ることができてほんっとーーーーーーーーーーに良かったです。めぐさんのファンテーヌは愚かさはともかく弱さや哀れさや儚さといったものはそんなになくて、だからレミゼ素人考えですが、たぶん「ファンテーヌ」という役の王道からは外れているのではないかと思うファンテーヌでしたが、弱くも哀れでも儚くもない「夢やぶれて」は言葉に出来ない、表現する言葉が見つからない感情に襲われて、気づいたらボーボー泣いてるわたしがいました。今でもあのときの感情のうねりはなんだったのかと考えるけど、やっぱり言葉は見つかりません。
めぐさんファンテの大好きなところは娼婦にまで堕ちたファンテーヌがバマタボアにボッコボコにされる場面なのですが、「殺してやる!」というファンテーヌにバマタボア逃げて~!となったのは初めてです(笑)。それでこそ俺たちの濱田めぐみだぜ!(笑)。
そうそう、この流れで思い出したけど、ファンテーヌが天に召されたあと、託されたコゼットのところへ向かうべく病院に現れたジャベールと『対決』するシーンで手錠の鎖を拳にぐるぐる巻いて殺傷力を上げる光夫さんバルジャンの手馴れっぷりな(笑)。確実に「慣れてる」手つきすぎてここいつもちょっと笑ってしまうんだよなw。
そして手と足を開いた状態でジャベールとポジション取りをするシュガーさんバルジャンが紙相撲の人形に見えてしまったことも初めてのバルジャン記念として書き残しておきますw。

話は前後しますが、ジャベールは市長が24653ことジャンバルジャンだと気づくまではいかずとも、カートクラッシュの時点では疑ってはいるのだとわたしは解釈してて(だから突然市長に対し「あなたとよく似た男と知っている」と言い出すのだと)、川口竜也さんのジャベールはそう感じるのに対し伊礼彼方さんのジャベールはぜんぜんわかってないように見えるんだよな。だって裁判所にやってきた市長が「にーよんろくごーさーーーーーん!」って言いながらシャツをバッと開いて胸の焼き印を見せダッシュで逃げたあと、衝撃すぎたのかちょっと間を置いてから明らかに「ハッ!」としてから追いかけるんだもん。川口さんジャベールも逃げるまで手出ししないしバルジャンがファンテーヌを看取るまで病院に来なかった(追いつくまでそれだけ時間が掛かった)ことに変わりはないんだけど、正体を明かす前から疑ってたように見える川口ジャベと裁判所で初めてそうと知ったように見える伊礼ジャベでは「対決」に臨む心構えが違うというか、絶対にここで捕まえるという強い意志に差があったように思う。それはそのまんま「対決」シーンの迫力であり緊迫感に現れてしまうわけで。
冗談半分のリップサービスではあったのでしょうが、伊礼さんは千秋楽の挨拶でこの場面のことを「熊と小鹿のよう」だと言っていて(光夫さんバルが熊で彼方ジャベが小鹿です)、それじゃダメだと思うんだよな。この場面に限らずバルジャンとジャベールは常に拮抗していなければならないとわたしは思っているので。
シュガーバル×彼方ジャベを1回観ただけであとはすべて光夫さんバルジャンが相手だったせいか、確かに彼方のジャベールはバルジャンの「誓ってやり遂げる」に気迫負けしてた印象なんで「小鹿」発言も納得してしまったのだけど、繰り返すけどそれじゃダメだろうと。泥臭さのない、どちらかと言えばスタイリッシュな感じのジャベール自体は個性として悪くないと思うので、そこは保ちつつ、声量は負けるとしても(ほんとはそこも負けないでほしい)せめて気持ちだけは熊に対し虎であってほしい。


テナルディエ夫妻はどの組み合わせも違和感なく楽しめましたが、特筆すべきは今回初参加となる朴璐美さん。朴さんのテナ夫人素晴らしかった!。歌も姿もおっぱいも文句ナシでしたがなんといっても声の使い分けがさすがの一言。テナルディエ夫人と言えば森公美子さんなので、森さんのテナ夫人が教科書のようなつもりでいましたが、正直がなり声(の演技)があまり好きではなく、でもテナ夫人とはそういうものだと思っていたところが朴さんのテナ夫人は声音にバリエーションがあって、がなりはするけどバリエーションのひとつなので耳障りに感じることもなく、非常に魅力的なテナ夫人。「会えると夢みてたプリンス」という歌詞もテナルディエがプリンスに見えてしまった残念な美女の悲哀みたいなものが感じられて、いままで聞き流していた歌がスッと理解できたというか、テナルディエ夫人という人物に対する見方が変わりました。
初参加の前回は帝劇公演のみの出演だった橋本じゅんさんも、前回は橋本じゅん比でもっとできるだろう!と物足りなさが残りましたが今回はじゅんさんらしさを感じさせるテナルディエになっていて、その「じゅんさんらしさ」は万人の好む味付けではないのだろうなとは思いますがわたしは好きよ。悪人ぶってて実はそんなでもないのではないか?と思わせてまじドクズってあたりが。下水道でのまさにドブネズミそのもののような汚らわしさおぞましさは橋本じゅんの真骨頂だと思う。


エポニーヌも三者三様で甲乙つけがたいってかみんな好き!。
今回のレミゼラブルは感情を前面・全面にわかりやすく出す演出になっていると感じるのですが、それをより強く感じたのが昆夏美さんのエポニーヌでした。やさぐれ感が増したエポで、マリウスのことがずっとずっと好きなんだけど、好きでい続けているからこそ想いが届かないことを理解しちゃってて、諦めてるところがあるように見えるんですよね。でもそれでも一緒にいたいし求められれば与えてしまう。それをしたからといってマリウスが自分を振り向いてくれることはないってわかってるんだけどでも・・・!ってな気持ちがひしひしと伝わってきて切ないったらない。
唯月ふうかさんのエポニーヌはマリウスがいつか振り向いてくれるんじゃないかという気持ちを捨てきれないエポかなぁ。マリウスが好き!!という気持ちはふうかちゃんエポが一番強く感じるのはそのためなんじゃないかな。
今回が初参加となる屋比久知奈さんのエポニーヌは三人のなかで一番ストリートで育ち生きてる感がある。貧乏学生とヤクザの娘という立場にどれほどの違いがあるのかわかりませんが、マリウスとの「違い」があからさまなんですよね。叶わない恋であることが明白なんです。そこが哀しい。だがそこがイイ!。
昆ちゃんエポの「On MY Own」が素晴らしかったと冒頭で書きましたが、歌唱だけでない感情やら魂やらをぶちこんだ「歌」としてはやっぱり昆ちゃんに一日の長がある。でもこの歌詞が最も似合うのは屋比久ちゃんエポだとわたしは思うんだよな。昆ちゃんのように屋比久ちゃんならではの「On MY Own」を歌えるようになったら屋比久エポは最高のエポになるんじゃないか、という可能性を感じさせてくれたので、これからに期待したい。


さて、いよいよ本命語りの時間がやってまいりました。そうですアンジョルラスです。

いきなりですがアンジョルラスってカッコいい役なんですね。わたし相葉裕樹さんのアンジョルラスしか観たことがなく今回初めて違う役者が演じるアンジョルラスを観たんですが、誰が演じてもカッコよかったよアンジョルラス!!相葉っちだからカッコいいってわけじゃなかったよアンジョルラス!!。
これが2019年レミゼラブル最大の収穫です!!(え?それ?w)。


誰が演じてもカッコいいんだけど、でもやっぱり演じる役者によって「違い」はあるわけで、海宝直人さんのマリウスを固定にして三人のアンジョルラスを自分の目で観て感じて比べました。そしたら思った以上に違ってた。この違いを言葉で表現するのって結構難しいんだけど、

上山アンジョは学生みんなの意見を聞く。砦にバリケードを築くまでにたくさんの夢と理想と計画を「みんなで」語り合い、学生たちのなかから自然発生したリーダー。言うなれば『部長』。スケールの話ではなく学生たちとの距離感の話として、学生たちに「お前はどうだ?」と話を振り議論を誘導し時に纏めたりしてるうちに「そういや俺たちのリーダーって誰だ?」「上山だろ?」「だよな、あいつ纏めるのうまいし」ってんで周囲の人間が自然と、そしてあたりまえに全員一致で「部長・上山アンジョルラス」って書いて提出した、そんな感じ。

小野田アンジョは学生たちの意見を聞くだけ聞いて「お前たちの意見はわかった。じゃあ俺についてこい」と、最終決定するのはあくまでも自分という『指揮官』タイプ。なんなら革命を起こすための仲間を必要としてABCカフェにやってきて言葉巧みに学生たちを誘導してる感すらある。

相葉アンジョは相葉アンジョの言葉ありきで、相葉アンジョが掲げる理想と自由のために、その言葉をきくために集まった仲間たちってな感じで、それを表現するとなるとやはり『カリスマ』という言葉があてはまる。それには見た目が大きく影響してて、相葉アンジョは誰よりも背が高いから相葉アンジョが話し出す(歌いだす)とみんな顎をちょっと上げて見上げるんだよね。これがカリスマ感を「目に見える形」で補強する。それに銃を掲げて「行くぞー!」とかバリケードで「来るぞ!伏せろ!」とか「撃てー!」とか、そういう掛け声は三人とも同じような感じなんだけど、相葉っちは歌声がやはり独特なんだよね。歌唱力としてはそれこそ小野田くんには全く歯が立たないって感じだけど、相葉っちのあのレーザービームのように空間を切り裂く声質はいい意味で異質なので、相葉アンジョが歌い始めるとどんだけ周りががやがやしててもその声は届くんですよ。それもまたカリスマ感に繋がる。


って、今これを書きながらふと思い浮かんだんだけど、マリウスが恋をしたってんで学生たちが盛り上がって酒瓶を投げ合う場面、ここ前回(2017年)は回される酒瓶をアンジョルラスがキャッチして「Red And Black」だったところか今回は上山くんと小野田くんは酒瓶回そうとしたらそれがアンジョルラスだったってんで「あっ・・・」ってな感じで学生が自主的に酒瓶を提出というか没収(笑)されるってな流れなのに対し相葉っちだけが前回から引き続いて酒瓶をキャッチしてるんですよね。
上山くんは学生たちが盛り上がってるのをそこまで強く止めようとはしていないというか、ちょっと盛り上がれば自分の話を聞くだろうと「信じてる」感じがあって、同じ行動であっても小野田くんだとそれは無言の圧力のように見えるんですよ。お前ら分かってるよな?ってな感じで。で、相葉っちは酒瓶リレーを強引に止めたようでいて、酒瓶がアンジョルラスの手に収まるべくして収まった感があるんだよな。そういうものの積み重ねが三人の印象に繋がってるのかも。
(2017年からおそらく一度も失敗しなかったボトルキャッチを2019年帝劇千秋楽で初めて失敗してしまったのですが(アンジョがつかみ損ねたのではなくフイイ?の投げた軌道が悪すぎたんだよー!)、その瞬間周りの学生たちの間に明らかに動揺が走ったものの、そこからのやややけくそ気味というか、妙にハイテンションなRed And Black最高だったわー!。ものすごい一体感と熱量だった。失敗はしないほうがいいに決まってるけど、このRed And Blackからの民衆の歌をわたしはずっと忘れないだろう)


上山アンジョルラスは「俺たちの革命」
小野田アンジョルラスは「俺の革命」
相葉アンジョルラスは「私が率いる我々の革命」


あくまでわたしの印象ですが、こんな感じ。
よく言及されるコゼットにひとめぼれしてABCカフェでの会合に遅刻してきたマリウスへの「マリウス、分かるけれど」は

上山アンジョルラス「マリウス(君の気持ちは)分かるけれど」
小野田アンジョルラス「マリウス(なにかあったことは)分かるけれど」
相葉アンジョルラス「マリウス分かるけれど(黙れ)」

これぐらい違う。
どれか正しいとかでなく、みんな違ってみんないい。だからもう好みだよね。アンジョルラスになにを求めるか、それは人それぞれだろうわけで、その点これだけ違うアンジョルラスが揃えばそれはもう「よりどりみどり」なわけで、「お好きなアンジョをどうぞ!」ってなもんよ。わたしはアンジョルラスを見比べるために海宝マリウス固定で観たけど、マリウスが違えばまたアンジョルラスの印象も変わるところはあるだろうし、実際相葉アンジョも海宝マリウスと内藤マリウスと三浦マリウスではアンジョ自体は変わらなくとも関係性とか距離感とか空気感なんかが違って見えるし。


というわけで三人のマリウスですが、やはり海宝直人さんのすべての要素における品質の高さは素晴らしい。レミゼラブルという舞台作品はジャンバルジャンという男の人生を描いた物語であるわけですが、最大の見せ場はやはり学生たちの革命、バリケードの場面だと思うのです。本来関わるはずがなかった学生たちの革命にジャンバルジャンが加わった理由は愛する娘の愛する男を助けに行くためで、ジャンバルジャンと学生たちを繋ぐ存在がマリウスという男になるわけですよね。マリウスがいるからこそジャンバルジャンの物語の1ページに学生たちの革命が刻まれるわけで、つまりマリウスこそが鍵なのだと。
で、マリウスとはそれほど重要な役であるということを、わたしは痛感したわけです。はっきり書いちゃうけど海宝直人と三浦宏規のあまりにもありすぎる「差」によって。
三期目の海宝くんと初参加の三浦くんを比べるのは酷だという意見もあるでしょうが、比べてるわけじゃないんですよ。だって比べるところまでいってないんだもん。
スポーツだと大会に参加するための「参加標準記録」があるじゃないですか。それをイメージしてもらえればいいと思うのですが、レミゼラブルという舞台に出るための「参加標準記録」に達してないんですよ、三浦くんのマリウスは。
2019年のレミゼラブルは感情を前面に出す演出だと前述しましたが、それにより海宝マリウスは更なる進化を遂げ、内藤大希くんのマリウスに至ってはまさに羽化した!!ってな感じで魅力をダダ増してるもんで(なんかもう、人たらしマリウスっぷりが凄かったの!。見た目としてはそんなに「素敵」なマリウスではないのに、感情の出し方なのかなんなのか、エポニーヌに恋い焦がれられてるのもアンジョルラスに特別扱いされるのも一番納得できちゃうのが内藤マリウスなんだよなー)、余計に三浦マリウスの「なにもなさ」が際立ってしまったようにわたしには思えました。見方を変えれば海宝&内藤の進化であり成長がすごすぎてマリウスの平均点が上がりすぎてしまった(がために相対的に三浦くんの点数が低く感じる)ということなのでしょうが、マリウスの出来が満足度に直結するのだということを知ってしまった今、三浦マリウスには辛い評価をつけざるを得ません。


アンジョルラスに戻ります。
ガブローシュの死を目の当たりにしアーミーオフィサーの最後通告を受け「死のう僕らは」とアンジョルラスに言われて、変な言い方だけど学生たちが『納得』するのって上山アンジョと共に戦う学生たちが一番大きいと思う。だって彼らは自分の意志でもってここにいるから。俺たちの革命なんだから。

小野田アンジョの場合は1幕は人間味があるものの2幕に入ると感情が見えなくなることもあって、冷静というより冷酷とすら感じる瞬間すらあるのでその頃にはこの人何を考えているのだろうかと怖くなるんですよね。でもそんな小野田アンジョはガブローシュの遺体をグランテールに渡したあと糸が切れたように両膝をついて呆然となったんですよ。その瞬間冷静な指揮官という鎧が剥がれ落ちてしまったようで、生身の人間がむき出しになったようで、だから小野田アンジョの「死のう」には討ち死に感がすごくあって。続く学生たちもそう「しなければならない」って感じに見える。

相葉アンジョは「民衆の歌」をうたいだすときもうたってる最中も、遠くを見てるんですよね。ABCカフェの外に広がるパリの街を、今じゃなくて未来を見てる。その理想が、意志が、高潔で美しく清らかであればあるほど脆さというか危うさがすごくて、そんな相葉アンジョの死はプレビューから開幕当初は最後まで諦めない強さのようなものを感じたんだけど、後半は自由のために命を捧げるという感じに見えた。旗を振り拳を高々と突き上げ自由を求めるその姿に、学生たちは置いていくなと手を伸ばそうとして次々と死んでいく。この時彼らが求めたのは自由ではなく相葉アンジョルラスなんじゃないかって。

初めてアンジョルラスを演じた2017年公演での相葉アンジョルラスは文字通り「革命の象徴」のような存在でいい意味で人間味がなかったのに対し、今期は象徴であり高みから学生たちを導いているのは変わらない一方で学生たちと同じ地面に足をついて立っている感じもあるというなんだかわからない次元の存在にまでなっていて、なにが相葉っちのアンジョルラスにこんなにも大きな変化をもたらしたのだろうかと、演出の方が変わったからなのか相葉っち自身の(作品世界を生きるうえでの)在り方なのかはわかりませんが、ABCカフェで言葉を投げかける「相手」を「見て」いると言ってて、この歌詞でこの動きをするという動作の流れではなくそれを「誰」に言うかを考えてると言ってて、そういう意識が「下界に降り立った大天使」感に繋がってるのかなーなんて思いながら毎回観ていたのですが、前回は孤高のまんま死んだ(ように見えた)(それが素敵に思えた)相葉アンジョルラスが今回は仲間を連れて逝った感じになってるのがもう・・・最高にエモカッコよかった。
人間味が加わったことでさらに青さを感じさせるんだよな。経験を積んだ上の青さ。この青さは上山アンジョルラスにも小野田アンジョルラスにもない相葉アンジョルラスだけの武器であり魅力だと思う。


撃たれたマリウスに駆け寄ったアンジョルラスはバリケードに背をむけマリウスに取り縋るんだけど、そのアンジョルラスをマリウスから引き離すようにして砦を指さすのがグランテールなんだよね。アンジョルラスに対して誰よりも強い想い、強い決意を持っているのはグランテールだと思うんだよな。コンブフェールやクールフェラックやフイイもそうではあるけど彼らがアンジョルラスの革命を支える、支えたいと思っているのに対しグランテールはアンジョルラスという人間そのものを信奉してるように思う。だからこの時のグランテールは最期まで俺の天使であってくれと、そう言ったんじゃないかな。革命の天使として死ねと、俺もあとに続くと。その言葉でアンジョルラスは見失いかけていた自分を取り戻す。グランテールを強く抱きしめたあとバリケードを駆け上り、革命の赤い大旗を振り、自由への拳を突き上げる。
ああ・・・なんてカッコいい役なんだろう。自分の大好きな役者がこんなにもカッコいい役を演じる幸せを、それを観ることができる幸せをかみ締める2019年のレミゼラブルでありました。


あれ?締めみたいになってしまったw。
まだもうちょっと続けますが、わたしが一番好きなアンジョルラスは実はこのあとでして、一人生き残ってしまったマリウスが仲間の姿はもうそこにはいない、歌声もないと嘆く「カフェソング」でマリウスの妄想というか、マリウスの目に映るまぼろしのような存在としてアンジョルラス以下死んでいった仲間たちが現れるのですが、マリウスが「ああ友よ、許せ」と叫んだ瞬間手に持っている蝋燭の炎を「ふっ」と息を吹きかけて消すと同時に後退するの、ここがもーーーーーーーーうめちゃめちゃ好き。
この場面相葉アンジョは完全なる無表情なんですよね。生前はまさに天使のように光り輝いていたアンジョルラスが、姿はそのままだけど『無』なんですよ。失ったものの大きさを突き付けられるというか、それはそのまんまマリウスの喪失感、光のない世界で生きるマリウスの孤独であろうわけで・・・とか言いつつも、無表情でそっと息を吹きかける相葉っちの麗しさしか見ていないわたしなのですがw。
ていうかここではこんなにも麗しかった相葉アンジョなのに、次にマリウスとコゼットの結婚式で給仕として登場するときは狂人になるんだよな(笑)。好き(笑)。


『Epilogue』はめぐさんファンテの底なしの慈愛に溺れそうでした。上手からゆっくりと現れバルジャンに向け歌いだした瞬間「あ、聖母だ」と思ったもん。今回バルジャン1本になったからか光夫さんの父性が爆発してるんで(コゼットをマリウスに託し姿を消すときにコゼットが居る屋敷の壁にやさしく触れるのとか溢れる愛が切なすぎてもうもうもうっ!!)、光夫さんバルジャンとめぐさんファンテの回なんて包まれてる感が凄まじくて、わたしの心は完全に跪いてお祈り状態になってました。八割方召されてた。
初めてレミゼを観た前回は、ここでファンテーヌとともにエポニーヌがジャンバルジャンを迎えにくるのがなぜなのか理解できなかったんですよね。でも今回はわたしなりの解釈が見つかりました。
ファンテーヌにとってジャンバルジャンはコゼットを救い守り愛し抜いてくれたひとであるように、ジャンバルジャンはエポニーヌにとっても「愛する人を助けてくれたひと」だからなんだね。
誰かを愛することは神様のおそばにいることなのだから。


気が付いたらものすごい長文感想を書いていた・・・。これだけ書いてもまだ消化しきった感がないというか、頭の中では歌が鳴り響いています。
9月までまだまだ続くレミゼラブルの世界が最後の幕が下りる瞬間までなにごともなく続きますように。
そして願わくば次も相葉裕樹のアンジョルラスを、さらに進化した相葉アンジョルラスを観ることができますように(とか言いつつ絶対に次もあるって確信してるんだけど!)。